聖徳太子と言えば,6年生の社会です。
十七条憲法と冠位十二階が有名です。
「十七条憲法」は『日本書紀』に載っています。
岩波の文庫本ですと,第4巻の「推古天皇」の章にあります。(冠位十二階も載っています)
「皇太子,親ら肇めて憲法十七条作りたまふ」
このあと,「一に曰く・・・」と続きます。
岩波の本には,ルビがたくさん振られています。
「憲法十七条」の読み方にもルビが記されています。これが,なかなか良いのです。
「いつくしきのり とをあまりななをち」です。
「憲法」を私たちは「けんぽう」と音読みしています。
それ以外の読み方はないものと思っていました。
ところが,上のように和の読み方もあったのです。
「いつくし」というのは,神々しいとか,素晴らしく立派というような感覚です。
ですので,この十七条はただの「法」と同等ではないのです。
「憲法」と似たものに,江戸時代の「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」などの「法度」があります。
「法度」と「憲法」は,単に言い回しが違うだけで,共に似たものと思っていました。
ですが,辞書を引いてみるだけでも,やっぱり違いが出てきます。
度・・・規則
憲・・・手本とすべききまり
(広辞苑調べ)
「手本」は素晴らしのが基本です。神々しいほどに素晴らしい手本となるきまりが「憲法」なのです。
明治政府が法度という言葉を用いず,「憲法」を用い,さらに,戦後も「憲法」を用いていること。
その心が実に素晴らしく立派に感じられてきます。
「和語で読む」 ことは,そこに託された心を知る手がかりになります。
『聖徳太子』には,「法華義疏(ぎしょ)」と「十七条憲法」が載っています。
「法華義疏」は,日本の現存する最古の書です。聖徳太子の作で法華経の注釈を書いた本です。
「抄」というのは,注釈という意味です。
太子の書いた注釈を読み飛ばすと,仏がどうしたという類の伝説的お話しと思えてきます。
ところが,その注釈を読むと,そこに非常に大きな計り知れない教えが広がってきます。
「なるほど,そうよむのか」と響いてきます。
これは,「憲法」を「いつくしきのりと」と和語で読む読み方を知っているかいないかで,響き方が変わるのと似ています。
法華経と禅。自分なりにもう少し勉強を進めてみたいと思っているジャンルです。
友人の横藤雅人先生の新刊『5つの学習習慣』です。
わかりやすく書かれているので,どんどん読み進めることができます。
気に入ったところは,「子ども部屋は「貸す」」という考え方です。これは,作法に通じる実によい考え方です。
子どもの環境を「大満足」にしてはいけません。大満足は,その時はよいのですが,後から「わがまま」とか「甘え」とか,負の心根を持つことになります。
2分3分ほど,満たされない部分がある方が,「辛抱我慢の心」「全体が良いから,細かいところは目をつぶる」といった,良い心根が育つことになります。
特に,子ども部屋は毎日活用するところです。
長い年月をかけて使うところです。
部屋を借りつづける子どもの心に何が育っていくのか,それを考えるだけで,幸せな気持ちになってきます。
「腰を立てて椅子に座らせる」という章もありました。これもいいですね。
「良い姿勢は一生の宝」と横藤先生も記されています。
本当にそう思います。
良い姿勢で座れるようになると,姿勢の良い人がどんどん目に付くようになります。
良い姿勢の人を見ると,それだけで良い気分になってきます。
この本からも,姿勢よく座ることが伝わります。有り難いことです。
若い先生にも,若いお父さん・お母さんにも勧められる良い本です。
日本教育新聞に記事が載りました!
算数DVDの記事になるのだろうと思っていたら,なんと私の事が書かれていました。驚いています。
それにしても,算数ソフトの開発に至るまでの経過が実に良くかけています。
また,算数ソフトの効能も示されていて,感謝感激の内容です。
さすが,教育に精通した記者さんが作られるとこうなるのかと,大変勉強になりました。
東京の内田先生のコメントも有り難いです。「教師の説明が短くてすみ,学習がスリムになる」とのことです。
説明が短くてすむのは,子ども達がソフトを見て,頭の中での理解が多いに進行している証拠です。ソフト画面からの理解があるので,それをちょっと補う説明で十分理解が進むと言うことです。
なるほどと,思います。
ところで,日本教育新聞に載っている算数ソフトの画面。これは3年生の分数のソフトです。1/3の下にある「桃太郎」ボタンをクリックすると,分子の「イ」が分身して,「イ」が2つになります。
もう一度,桃太郎をクリックすると 「イ」が3つになります。
その都度,分数の分子の数も2から3へと変わります。
この図と数の連動は,脳科学的に右脳と左脳を一緒に使う事になるので,良いのだそうです。
私には脳科学のことはよく分かりませんが,記憶の残り方が非常に良くなることは実証されています。ですので,右脳・左脳を一緒に使うことは,脳にも気持ちの良いことなのだと思えています。
明治25年,福井県遠敷郡高等科雲城小学校が発行した『生徒手帖』が手元にあります。
表紙をめくると,明治23年に出された教育勅語が載っています。
勅語のページをめくと,「生徒心得」となります。
左の画像は,その生徒心得の第二条です。
読んでみると,すぐに伝わってきますが,文末が良いですね。
---守るべし
---たるべし
---すべからず
---あるべからず
文末が文語調になっているだけで,心への響き方が変わります。
歴史の重みが文に加わっていると感じるからでしょう。
面白いなと感じるのは,「登校降校」です。
「降校」が珍しいです。
『広辞苑』を調べると,「登校」「下校」は出ています。
でも,「降校」は出ていません。
昭和10年の『辞苑』(広辞苑の前身)を調べると,「登校」は出ています。
でも,「下校」「降校」は出ていません。
明治37年の『言海』を調べると,どれもこれも出ていません。
この変化も面白いです。
「登校」「下校」という学校用語が一般化するのに,かなりの年数がかかったことがわかります。
その原因は,明治期の小学校が登校下校という漢語を用いていなかったからだと推測しています。左の資料は高等小学校です。今で言う中学ぐらいです。通っている生徒さんの数がうんと少なかったのです。
もう一つ面白いことがあります。
登校下校と言う言葉です。
この言葉は学校ができてから生まれた言葉です。
学校へ行く,学校から帰るのですから,基本的には「行校」とか「帰校」とか言えばいいのですが,まるでお城に上り,お城から下るような言い回しの「登校」「下校」が採用されています。
登城・下城
登校・下校
どうも学校はお城と同列の扱いに思えてきます。
明治期,新しく生まれた学校は,お城のように精神的に高い位置にある立派な場として存在していたのでしょう。そのぐらい,素晴らしい場だったのでしょう。
大分県の校長先生からメールをいただきました。
春休みに向けての話しを,学校とお城を関連づけて子ども達にされたそうです。
子ども達は,きっとお侍さんのようにしっかりした心で春休みを過ごそうと思ったかもしれません。嬉しい限りです。
その校長先生のお名前は,古城校長先生です。
「人の行い 孝より大なるはなし」
親孝行に勝る行いは無いですよと,聞こえてきます。
両親が喜んでくれることは,たいてい良い行いです。
両親を悲しませる行いは,もちろん悪い行いとなります。
『孝経(こうきょう)』の一節です。
何かするときに,両親がどう思うだろうかと考えるのは,実に有益なことです。
判断に迷ったとき,御両親を思い浮かべれば,そこに道が見えてきます。
親孝行に関わる言葉は,「仰げば尊し」にも記されています。
「身を立て名を揚げ やよ励めよ」
この部分です。
「身を立て名を揚げ」は,孝の教えを記した『孝経』からの言葉です。
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身体髪膚,これを父母に受く。あえて毀傷(きしょう)せざるは,孝の始めなり。
身を立て道を行い,名を後世に揚げ,もって父母を顕すは,孝の終わりなり。
それ孝は親に事(つか)うるに始まり,君に事うるに中ごろし,身を立つるに終わる。
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「身を立てる」というのは,親孝行を第一とし,世の中に出たら,長たる人物を親同様に大切にする,そういう生き方を指します。
「孝の道」を歩む。その姿勢が「身を立てる」ことなのです。
そういう孝行者なら,自然と立派な人だとの名声が揚がってきます。
これが「名を揚げる」です。揚げようと思ってあげるのではなく,自然に揚がっていくのです。
それがお父さんお母さんの誉れともなる,このような意味です。
ですので,無理して狭くとれば,いわゆる「立身出世」とも言えますが,昇級を目的として,そこへ向かって「お目々ギラギラ」となる教えではありません。
親を大切にする心をもって人生を歩むことを教えた尊い言葉です。
私も若い頃は,「身を立て名を揚げ」を,「立身出世」と思いこんでいました。
古典から学ばず,字面だけで解釈していたからです。
表面の知識を根拠に,大いばりで反民主主義の歌と思いこんでいました。
実に情けないことです。
どんな時代であれ,親孝行は褒め認められこそすれ,否定はされません。
主義主張も時代をも超える大切な教えです。
中村先生のお誘いで,佐賀で「作法」と「算数ソフト」の話しをしてきました。
参加される先生方が会場に入り始めて,驚いたことがあります。
「姿勢」 です。
みなさん,姿勢がよいのです。
自然のままで姿勢がよいのです。
頂いた資料には,次のように記されています。
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主催:佐賀県モラロジー教育会議
運営:鳥栖モラロジー事務所
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開会・閉会にも格調がありました。
そういう場に集う先生方です。
姿勢がよいのは当たり前のことであり,日頃からの人格形成の心得が違うのだと思った次第です。
私の話しのスタートは「姿勢」の話しです。
姿勢の良い先生方に姿勢の話しをします。
なかなか難しいように思えます。
しかし,実際に姿勢の良い人は,返って逆に姿勢を問われるとハテナとなります。
「嗜みレベル」に達すると,「躾けレベル」のイロハが見えにくくなるからです。
入門期は椅子のどこに座らせるのか。
手を「ハ」の字にするのは,なぜか。
良い姿勢の効能。
外は内を養い,内は外を資ける。
辛抱我慢も七日か十日。
形あるところ礼あり,礼あるところ心あり。
「姿勢」 の周辺には実に数多くの学びがあります。
「辛抱我慢も七日か十日」というのは,先を見通す「論理の力」です。
行為としての姿勢から,論理を学ぶからこそ,作法は大切な学習となるのです。
会場に,際だって姿勢の良い方がお二人おられました。
その内のお一人は,同朋広瀬保育園の森山隆子園長先生です。
同僚の先生を2人連れての参加でした。
若い先生も論語を学ばれているということで,実に力強く思いました。
懇親会で,久保先生が毎年姿勢の指導を1時間行っていることを聞かせてくれました。
有り難いことです。
話を聞けば,人体骨格模型を使って,内蔵が圧迫される所をしっかりと伝えるとのことです。
これは,池見酉次郎先生の記された「立腰の十の功徳」に通じる教えです。
何か,実践の資料を読ませていただければと思った次第です。
森山先生にも,久保先生にも通じるのは,道徳で生活改善をしっかり進めようという姿勢です。
道徳の基本です。