Monthly Archives: 5月 2017

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自然体験と算数は別物

ミーティングをしていると、時々ですが、自然体験の大切さが語られることがあります。

話を聞いていると、火おこしにしろ、紐の結び方にしろ、木の切り方にしろ、それなりに学ばないとできません。
また、体験的に得たことは危険とか予期せぬことなどが伴うので、デスクでの勉強では得難い貴重性があります。対応力や判断力などです。
だから、確かに自然体験は大切で、そういう体験はした方がいいという気持ちになります。

デューイを読んでも、そういうことが書いてあります。
自然に直接にぶつかることや、実際の事物や材料をとりあつかうことや、それらのものを操作する実施の過程に触れることなどから得られるじっくりした習熟や、それらのものの社会的な必要さや用途についてのわきまえが、教育目的からみて重要な意義を持っていることをみのがすことはできない。『学校と社会』p22)

ルワンダに行くと、首都のキガリでも、周囲には結構自然があります。
学校の敷地にヤギがご覧のような状態で飼われている学校もあります。
自然には事欠かない世界です。

ですが、算数は非常に問題が大きいです。信じがたいほど分かっていなくて、できないのです。

自然体験を積むと、足腰のしっかりした学問の基礎ができる、というような信仰に近いものを持っていたのですが、ルワンダに行って気が変わりました。
自然体験が有効なのは自然体験の範囲であり、人為的な学問は人為的に学ばないとそこでの成長はありえないのです。

遠山啓が半具体物として、正方形のタイルを用いたのは、まさに人為の傑作です。
ペスタロッチが分数計算の図を用いたのも、人為の傑作です。

ルワンダの子の子ども達に、諸先輩方から学んだ人為的教材の具体性と、その考え方をプログラムしたソフトを大いに示したいと思います。
ただただ、短時間に量をこなせば、ルワンダの子も急速に算数ができるようになります。
そういう画期的な日を迎えたいですね。
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セミナーがあります

来週の土曜日は、埼玉で道徳のセミナーです。
第2回 主張ある道徳授業を創る!

このセミナーに、島根の広山先生が参加します。
道徳通の先生が多数集まるので、このセミナーは楽しみですね。

ここ2日ばかり、丸岡先生とメッセージ交換をしています。
その内容は、「道徳読み」です。
どうも、道徳読みは良いようですね。

丸岡先生とは、6月25日の野口塾in大阪で会います。
時間を見て、道徳読みについて語らいたい思っています。

主張ある道徳と、大阪野口塾の間に、「子どもに学ぶ教師の会埼玉セミナー」があります。
6月17日です。
長い目でこれからの教育を考えるセミナーです。
長い目と考えていくと、コンピュータ・人工知能なども頭に浮かんできます。
楽しい世界ですが、無くなる職業がたくさんあると、未来が心配になってくる情報も飛び回っています。

私が大学生の頃、21世紀の初頭には石油が無くなるという情報が出ていました。
そうなったら大変です。
どうすべきか、考えたこともありました。
しかし、今、実際にその時代になったのですが、未だに、油田が枯渇したという話は聞きません。
対策が着々と進められていく、それが人間の歩みなのだと思うようになりました。

文化・文明の発展については、深刻に考えず、もっと前向きに捉えようという思いを強めてくれたのは、ブルーナーです。
「書物が学習を非人間化しないと同じように、機械が学習を非人間化するようなことになるとは思われない。」(『教育の過程』p109)
さすがですよね。
このぐらいの見識があれば、「どんと来い!人工知能」ですよね。
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遠山啓「量と質の転化」の量の構造

『遠山啓』は面白いですよ。
今日も一つ、グッと来たところを引用しましょう。

エンゲルスは弁証法の主法則として、“量と質との転化” “対立物の相互浸透” “否定の否定”という三つの法則を上げている。(p177)

頭の良い子はなぜすぐに分かり、そうでない子はなかなか分からないのか。
若い頃から、この極めて自然に現れてくる現象の原理がどうなっているのか、どう理屈づければ、この問いへの解答となるのか、と考えることがありました。

この疑問は、引用した「量と質の転化」の問題となって私の課題となっていました。
量をこなすことで、質的に変化していく。
その構造はいかなる様相をしているのか。

その答えとなりそうなことが、前回も引用したところに記されています。

それは質の差ではなく量の差に過ぎない(p241)

優れた見識です。
子どもの頭に質的な差があるのではなく、こなした量に差があるのだと言うことです。
量をこなせば、誰でも分かる!
遠山のこの言葉は、そういう命題を示しています。

これは、教師をやっていればそう願わずには居られません。
たくさん練習してできるようになる子。
少ない練習でできるようになる子。
そこにあるのは、量的な差だけと考えたいのが教師なのです。

と思っても、その差が大きくなってしまうと、心がくじけます。
どうにも質に差があるように思えてきます。
恐いのは、この瞬間です。
質に差があると見なしてしまうと、それはもうお手上げという感覚に襲われ、教育の無力さが頭を覆い始めます。

こういう落とし穴的思考にフタをして、「量の差とは何なのか」という問題意識を持っていると、出会うべき本に出会うようになります。
私の場合はデカルトの『精神指導の規則』でした。

尚それらすべを記憶して居らねばならないのである。この故に私は、一々を直感すると同時に他に移り行く一種の連続的な想像の運動によって、幾度もそれらを通覧するであろう。(p31、岩波文庫)

一つの事例を見ることで、その事例で何が起こったかが頭の中に入り、それを忘れない内に次の事例、さらに3つ目の事例をみること。
これができるのが頭のよい子で、2つ目、3つ目の事例に接する頃には1つ目の記憶が消えかけてしまうのが、そうでない子の頭の働きなのです。
よく、1時間で1問の問題を考えるタイプの授業があります。
これは、翌日まで、記憶の持続を求める学習になるので、そうでない子がアウトになるようにしむけている授業とも言えます。

大事なポイントは、忘れない内に次の事例を示ていく活動をすることです。
「短時間」がキーワードになります。

こういう思いがあって、算数ソフトをつくりました。
ですので、私の作った算数ソフトは、その大方が理解の伴う類題を連続的に出題できる仕組みにしています。

短時間の内に類題を数問体験することこそが、遠山啓の言う「量の差」を克服する方法なのです。

このあたりのことを、御存命だったらお話ししてみたかったですね。
算数ソフトも見てもらいたかったですね。
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「あらしのボートレース」は国語の教科書に入れられた道徳だったのでは?

「小学生のころ、最も印象的な国語の話は、『雨の早慶戦』です。」
と、何かの拍子に話したことがあります。
隅田川あたりで行われたボートレースの話です。
私は「雨の早慶戦」という題だったと思っていたのですが、ネットで検索をしたら、違っていました。
「あらしのボートレース」でした。

改めて、この話の全文を読んだのですが、小学生の時のわくわく感同様に、強い感動を受けました。
嵐ですので、ボートに雨がたまります。
川と言えども波が立つので、川の水もボートに入ってきます。

慶応ボート部は最後まで全力でこぎ続ける道を選びました。
早稲田ボート部は半数の4人が桶で水をかい出し、残った4人がこぎ続ける道を選びました。

はじめ慶応が大きくリードしていましたが、次第にボートに水がたまり速力が落ちます。
そうして、ゴール手前でついに沈んでしまい、早稲田の勝利となります。

この話は非常に教訓的に私の中に残りました。
がむしゃらに進むんじゃない!
状況を考えて、それなりの準備をしろ!

この年になって読み返してみても、同様のことを感じます。
歳をとったせいか、大会委員長は延期の判断ができなければ・・・とも思いました。

この感動的な、道徳的な話。
なんで国語の教科書に載っていたのでしょう。
ふと思ったら、当時はまだ道徳の副読本すら無かった時代と思います。
それでも、道徳は教えなければと考えて、国語の中に道徳教材をまぶしていたのではないか。そんな気がしています。

では、この「あらしのボートレース」を、国語らしく、早稲田の選手はどんな気持ちだったでしょうか。慶応の選手はどんな気持ちだったでしょうかと問うたら、どうでしょう。
せっかくの教訓的な内容がかすれてしまいます。
心情曲線を書いたらどうなるでしょう。教訓的な世界からどんどん離れます。
ましてや、どこから見ているでしょうかと視点を気にしたら、道徳からは絶望的な状態となります。

教訓的な力のある教材は、国語のように迫らない方が良いのです。
では、どう授業を進めたらいいのか。
それには、「自然道徳」と「学問道徳」を念頭に入れるところから考えることになります。
すると、「困難」の構造を把握する授業になっていくでしょうね。

道徳は、やっぱり論語を読むことです。
私の机の上にも、『日めくり論語』があります。
毎日見ているだけも、良い勉強になります。
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『遠山啓』は名著!

英語のわくわくプリントの新作が、さくら社HPにアップされました。
関心のある先生、ぜひ、御活用下さい!
<こちら>です。

今日は、読書ぐらいしかできないまとまった時間があったので、『遠山啓』を読みました。

これは、名著ですね。
よくぞ、ここまで編んで下さったと、ありがたい気持ちで一杯になります。
いつもなら、ペンでガンガンに印を付けるのですが、畏れ多い気持ちが湧いてきて、薄く少し書くにとどめました。
それでいて、勇気が湧いてくる、実に素晴らしい本です!!

◎ 身近なものほど“経験しやすい”ことは事実だが、“認識しやすい”とはいえない。(p214)

障害児を「特殊」とみなす教育観から脱却し、それは質の差ではなく量の差にすぎないという人間観・知能観に立ち、人間としての知的発達をあきらめず、指導のしかたを工夫しさえすれば、健常児同様、障害児も抽象的な概念に接近していけるという事実を見せられ、滝沢は驚愕したことを率直に告白している。(p243-244)

50年も60年も前、まだコンピュータが身近になかった時代に、遠山啓はここまで見通していました。
私も量をこなせば質に転化することは、「量質転化の法則」から、実にそうだと信じていました。
しかし、実際にそれを算数の授業で展開することは、できませんでした。
繰り返しの授業をしても、肌感覚で質的に転化することを実感できなかったのです。
肝となる「短時間」「大量の反復」の両方を満たすことが、黒板の授業ではできなかったのです。

時は流れ、PCが登場。
ソフトを使って授業ができるようになりました。
「量質転化は起こる!」と確信していたことが、現実となりました。
それが、日本のみならず、ルワンダでも。

障害児に「2+3」を教えるとき、実物のタイルを使って説明しても、2のタイルと3のタイルは離れたままで、「足して5」というまとまりになることを理解できなかった。だが、二つのタイルをぶつけてカチンと音をたてるようにしたら、はじめてひとつになったことを理解してくれた。(p251)

ここを読んだ時、算数ソフトを遠山先生に見ていただきたかったと痛烈に思いました。
動きを見せること。
それを短時間に繰り返し見せること。
効果音を入れること。
これこそが理解への究極の道なのです。

この本を読んでいると、遠山先生が算数ソフトへ太鼓判を押して下さっている気持ちになります。
そうして、「横山先生、やれることを精力的にやり進めてください。」と声をかけられている気になりました。
夢に描くアフリカプロジェクト。
アフリカチームの皆さんと一緒に、しっかりと進めたいと思います。

この本、読むのは4時間ほどでした。
しかし、この本は制作に時間がかかっただろうなと思います。
数年、いや5,6年はかかったのではないかと、読書中に思いました。
奥付には、「本書の執筆と制作にほぼ二年を要しました。」とあります。
にわかには、信じがたいです。
資料の整理がそうとうできている状態ということが推察されます。
この仕事をされた著者の友兼清治氏の情熱、勉強になります。
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小数の数直線

小数の数直線ですが、小学校の先生は、これにも違和感を感じるでしょうね。

「1.0はダメだろう! ここはやっぱり、1だよ。」
てなことがフッと浮かんできます。

初めて小数を学ぶとき、「1」と「1.0」はどっちの方が理解しやすいのでしょう。
そんなことを考えると、次第に1.0に軍配を上げたくなってきます。
なぜなら、「1の位が1」で「小数第1位が0」という位取りの思考が、パッと見た、見た目で伝わってくるからです。
それを便宜的に「1」と書いていると扱った方が、筋が良いと感じます。

また、ちょっと見方を変えると、1年生で習った「1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11」の表し方にも近いと感じます。

とは言っても、1とか2とか3とか、すでに知っている数があります。
そこに小数を学ぶのですから、整数の間に小数が存在していると考えることもできます。
すると、「1.0」ではなく、「1」の方がすっきりします。

前者は数として小数があり、その一部が整数と把握させるタイプですね。
後者は生活に基づいて、整数の間に小数は存在すると、とりあえずみていくタイプです。
どちらにしろ、時間と共に、両方の感覚がわかるようになるので、大きな問題にはなりません。
大事なことは、柔軟に把握することです。
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