これが足利学校でいただいた『論語抄』です。
「抄」は,元の内容から一部を抜き出すということです。ですので,この本には論語の一部が収録されています。
ということは,「論語抄」という同じ名前の冊子があったら,どんな内容が選ばれているかは,選び手によって変わってくるという事です。
そういう意味で,「抄本」は面白いです。
葉公,孔子に語げて曰く,
吾が党に直躬という者有り,
其の父羊を攘みて,
子之れを証す,と。
孔子曰く,
吾が党の直き者は
是れに異なり,
父は子の為に隠し,
子は父の為に隠す。
直きこと其の中に在り,と。
子路第十三の一節です。
父親が羊を盗んだ事を,子が正直に話しました。
しかし,孔子は,自分の里の正直は違いますよと言われ,父は子のために悪事を隠し,子は父のために悪事を隠します。
本当の正直はこの中にあります。
孔子の時代は戦乱に向かい,人々を法で治める時代になっていきました。
しかし,孔子は法で治めるのではなく,昔の王がそうしたように,徳で治めることが大切と考えていました。
その考えがとても良く出ているのがこの一節です。
人は放っておくと次第に堕落し始めます。
悪さもします。そんなときに,戒めを与え元の人に戻れるように働きかけるのが「法」です。
一方,「徳」は普通の人から少しでも立派な自分になろうと,少しでも善に向かいましょうと,自ら自分に向ける働きかけです。
法は他から与えられ,徳は自ら行う。
この大きな違いが,今の時代も見えにくくなっています。
親の悪行には,3度やんわりと話しますが,それでも親が聞き入れなければ泣いて言うとおりにします。それほど大切にするのが親なのです。親を大切にする事こそが,孝のはじまりであり,親を自分以上に大切にするからこそ,我が身を傷つける事を良しと思えず,兄弟も子も友も大切にできるのです。
羊を盗んだのですから,それをかばう子も一緒に罰せられます。場合によっては命を落とすかもしれません。そこまでして親をかばう子の姿。その思いに,なんで親が気付かないでいられましょう。きっと改心し,善に向かおうとします。
法という他からの力に頼らず,自らの心で善に向かおうとする事,これこそが真っ直ぐな正直の道です。
こういう有り難いことを学べた1日でしたので,野口先生のお話も一段と心に響きました。
私が好きな論語の本は『論語』(吉川幸次郎著 朝日選書)の上下巻です。