太陽暦が日本で初めて使われるようになった年の暦です。
明治6年がその始まりの年です。
一枚ページをめくると,カレンダーが載っています。
1日の項を下に見ていくと,太陰暦の日付が出てきます。
陰暦の12月3日が,陽暦の1月1日となっています。
ですので,その前年の明治5年は12月2日が最後の日となります。
この日を大晦日と呼んだのだろうかと,疑問が浮かんできます。今の私にはわかりかねますが,きっと,「12月2日が大晦日だ!」と驚きながら井戸端で話していたオッカさんやクマ五郎さんがいたものと,推察します。
昔の資料ですので,随所に珍しさを感じます。
「神武天皇即位紀元二千五百三十三年」
普段使っている「西暦」と比べると,この「紀元」の意味が伝わってきます。
「西暦」は西洋の暦です。
当時の先進国が使っていた暦で,日本もそれを借用しました。それが今も続いていて,今ではごく自然な年の表し方になっています。
西洋の暦があるなら,日本にだって暦があってしかるべき!と奮起してつくったのが「皇紀」です。資料に書いてあるとおり,神武天皇即位の年(西暦紀元前660年)から通して数えた年数です。その年数の元になったのが『日本書紀』。『日本書紀』を読むと,100歳を超える長寿の天皇も出てきます。読み応えのある本です。
学生の頃,皇紀があることを知ったのですが,その頃は,大昔から皇紀があったと思っていました。ところが,制定されたのは明治5年。それまでの日本には,通して年数を重ねる表し方が有りませんでした。あったのは「元号」でした。
ですので,古い本を読んでいると,「寛永3年」とか「慶安2年」とか「元禄10年」と,記されていますが,西暦は記されていません。これが,今の時代に生きる私たちには実にわかりにくいので,時代劇などでは「慶安2年(1649年)」と括弧つきで西暦を付け加えてくれています。ありがたいことです。
12月3日を翌年の1月1日に一気に変更してしまった当時の政治家。牽引力が非常に強かったのだと思います。目指すべき方向性が明確な時代だったとはいえ,そこに気迫を強く感じます。
表紙に定価が2匁と記されています。これは,銭2文のことです。