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「姿勢の良い人になろう」「人と自分の図」

b7867「姿勢の良い人になろう」の授業をして,まず最初に「人の図」を書きました。
それから,「人と自分の図」を書きました。

人には「優しく」と図に書いて,「では,自分には?」と問いました。
すかさず「厳しく」と返ってきましたが,正解は「正しく」です。
会場の先生方が頷く姿が見えました。

算数で3+2は「4」ではなく「5」と正解を示しても,頷くほどの反応はありません。
誤答も正答も,どちらも言葉の力が同程度だからです。

ところが,「厳しい」と思ったものが「正しい」と知ったとき,ある種の納得感が出てきます。
正解の言葉の方が,誤答の言葉より実に素晴らしいからです。
その寛さ,その大きさ,その輝き,その目指す方向・・・。

だから,道徳の場合は誤答を子供達が言っても,それがなぜ誤答かを語らずとも,正しい方を示すことで心に響かせることができるのです。
その響きが伝わる人は,正答を基準にして,なぜ誤答はイマイチなのかを考えるだけの力がわいてきます。

子供達には,正答を示すだけで理由は説明しませんでした。
「そう言うものなんですよ」と思うところから入るだけでも,「学びの構造」が子供達に伝わるからです。

この図を見て,声に出すときは,「自分に正しく,人に優しく」と読みます。
まず持って,自分を正します。
その正しさを持って,人に優しく接します。
これが道徳の基本です。
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この日の授業の途中で,一人の男の子が隣の子の背中を見て,小さい声ながら強い語気で「背中,背中」と言っていました。
洋服がふくらんでいて,それが背もたれに触れていたからです。
言われた子は「触れてないよ」と言うのですが,注意はやみません。

そこで私は,「人には優しく言うんだ」とその場で指導しました。
参観された先生方にはどう映ったかわかりませんが,この指導はお粗末です。
我ながら,切れ味が悪いと思いました。

少なくとも,「君は姿勢が正しい。それはこの図のここだ。ここは良くできている。」と一言加えるべきでした。
そうして,「優しくの方がイマイチ。言い方を考えてみよう。」などと言えたことです。
こうすることで,その子を学びの構造の中に入れることができ,周囲の子も一緒に構造に入れたのです。

図を使うというのは,とりもなおさず,学びの構造の中に子供達を入れていくためなのです。
こういう肝心なところをスルーしたのですから,お粗末としか言いようがありません。
こうした私の指導のお粗末さ加減は,瞬時の判断,切れ味の悪さであり,その根源はまさに不徳の致すところなのです。
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ここまでの授業の途中,一人の男の子をかまいつつ,「姿勢の良い人」の有るべき姿について指導しました。これについては,次の機会に書いていこうと思います。
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