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「道徳読み」の「社会の道徳」「自分の道徳」

仕事がはかどり、気分は上々。

道徳の教材に「ブランコ乗りとピエロ」というお話があります。
偶然、ネットで目にしたので、読んでみました。

少々不思議な教材ですね。

すでに、指導をされたことのある先生なら、お気づきのことと思いますが、道徳が途中でずれるのです。
「社会の道徳」の話だったのが、途中から「自分の道徳」になっていきます。

これは、きっと、「社会の道徳」も「自分の道徳」も、しっかり考えましょうね、ということだろうと思います。
「自分の道徳」については、それなりに情報が記されているので、道徳としてどうなのかと考えることができます。
でも、「社会の道徳」については、肝心なことが書かれていません。
この作品なら、「訓」と「会」について記してほしいと思いました。
そうでないと、せっかくの教材なのに、「社会の道徳」という大人の道徳について学べません。残念だなあと思います。

不思議に思ったのは、最後に王様からのプレゼントが登場しています。
これは、いかがなものかと思います。
心の教育をするのが道徳なのです。
王様が仮にプレゼントをしていたとしても、それをわざわざ記す必要はないと思います。
これを、王様の粋な計らいなどと考えてしまうと、せっかくの道徳が物品に押されてしまいます。一歩間違えると「私利」の世界へ引き込まれていきます。

そういう教材ですが、「道徳読み」をすると、学ぶべき点が多々見えてきます。
私は、ブランコ乗りの姿から、しばし反省させられました。
やはり、自分でじっくりと「道徳読み」をするのが良いなぁと思います。

ところで、「日めくり論語」が教室の教卓の上に置かれている学級だったら、ブランコ乗りに対する道徳も根拠をもって話す子が出てきますね。
さらに踏み込んで、「諭される前に改める力を持てば、なお素晴らしいですね。」といった思いも出てくる可能性があります。
「ブランコ乗りとピエロ」は、「道徳読み」をすると、味わい深い作品になります。

◆1月15日、実感道徳研究会全国大会。
◆2月18日、主張ある道徳授業を創るセミナー。
楽しみですね。
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論語

b7364いろいろとやることがあり、デスクに向かってバタバタしています。
これがまだまだ続くので、しずしずと情熱的に前進するのが一番と思っています。

時に、フッと休憩をするのですが、時折『論語』を開いて、極めて当たり前のことに感動をしています。

性相い近し。習い相い遠し。

生まれ持った素質にはそんなに違いはありません。
でも、その後の環境やら努力やらで大きな差がでます。

そんなの当たり前であり、何を今更と感じます。
それなら、読み返さなくても良いと思うのですが、これが違うのです。

当たり前のことを読んで、それが、心に再確認するように響いてくるのです。
自然と、自分の心の火が少し大きくなります。
夢を描きたくもなりますし、描いた夢へ近づきたくなります。
今日ももう一歩歩もうと心が促してくれます。
こういう心のあり方が、「道徳のなせる力」なのだと私は思っています。

b7473論語には、「正しい生き方」に関する当たり前のことが少し古い言葉で書いてあります。
私にはとてもありがたい本です。
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今度の土曜日は、野口塾in神戸です。
道徳の話もします。
お近くの先生、関心がありましたら、是非、お越し下さい。
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飛行機の中で法言

b7424ルワンダへの旅の友。
今回は、『法言』を持っていきました。

孔子の後、500年ほどしてから書かれた書です。

帯には、「『論語』よりもおもしろい!」とありますが、私には論語の方が断然面白いです。
でも、一緒に持っていった、仏教の本より格段に面白かったです。

飛行機の中で本を読むのですが、アフリカまでの道中は極めて長く、同行の人たちと隣同士に座ると、トイレの度に、通路側の人が動かねばなりません。
長旅なので、これが結構、頻繁となります。

それを避けるために、全員、通路側に座るように、座席を確保しています。
すると、全員が少し散らばるので、飛行機の中に入ると、もう、そこは一人で過ごす時間となります。
ゆっくり読書ができます。
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b7423法言の中から、ちょっといい感じだった言葉をご紹介しましょう。
「姑息は徳を破る」

姑息は知っていましたし、徳も、破るも知っていました。
でも、姑息と徳が結びついていることは、理解の外でした。
結びつくと、自然と姑息なことは避けようという思いがやってきます。
こういう思いはありがたいです。

何しろ、姑息なことをふと思ってしまうことは、誰にでもあります。
また、あわよくばと、姑息なことをしてしまうこともあります。
そういう思いが沸き上がってきたとき、ふと、立ち止まり、徳を破らないようにと思いを改めることができそうです。

知るということは、道徳を行う上で実に重要な作用をしてくれます。
知るために、本は読むものなのです。b7473
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面に見われ、背にあらわれ、そして・・・

夕飯をいただいたら、ルワンダに向けて出立します。
その前に、一つ、書きたくなりました。
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時々、「いいなぁ」と思うメールをいただきます。
大阪の新田先生が算数の授業を大変楽しく展開されたそうです。
わり算の勉強で、トイレットペーパーが登場。それを等分するする授業です。
その時、「魔法の手」が登場したそうです。
魔法を使う新田先生、きっと、子ども達も「先生大好き」状態だったと思います。

b7437新田先生と言えば、姿勢が実に良い先生です。
姿勢が良くなれば、自然と心根も良くなっていきます。
顔も次第に柔和になります。
このぐらいまでは姿勢を良くしていると、なんとはなく分かってきます。

『孟子』を読むと、その先が記されています。
「四体に施(なが)れる」と。
振る舞いまでもが自然と良くなるということです。
ぶっきらぼうにはしたくなくなり、横柄にはしていたくなくなります。
古典を読むと、先達のナイスな言葉に触れることができ、フッと「ああ、そうか」と感じ取れてきます。
気持ちがグッと良くなってきます。

b7473新田先生は魔法を使うほどの熱心な先生です。
子ども達も新田先生を大好き。
自然と子ども達は新田先生に感化されていきます。
これが道徳の学びのあるべき姿です。
実にいいですね。
そういう状態の子は、先生からどんどん吸収し始めます。
時折、先達のグッと来る言葉などを伝えると、子ども達の体に染みていきますね。
そういう先生と友達でいられることは私には嬉しいことです。
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「道徳の一時」 城ヶ崎先生と

今日は久しぶりに城ヶ崎先生と「道徳の一時」を過ごしました。
以前から、二人で話す時は自分たちを少しでも高められる、そう言う話を・・・と語り合って、不定期で会っています。

もし、二人とも徳のある人間でしたら、こういう一時を過ごす必要もないのですが、どうにも自分自身を思うと、恥じ入ることが多く、こういう一時を生かして物事をどう考え感じていくのか語り合っています。

b7446今日の話しを振り返ると、「はじる心」になるかなと思います。
宿題を忘れてあっけらかんとしている子は、忘れる事への恥ずかしさが芽生えていないのです。
忘れると言うことは、言葉を変えると、約束を守らないということです。

その昔から、子供を育てる上で重要な叱責の言葉が2つあります。
1つは、「そんなことをしたら恥ずかしいでしょう」
もう1つは、「立派な人は、そういうことをしません」
この2つは、ともに「はじる心」を育てる言葉なのです。

孟子は「羞恥の心は義の端(はじめ)なり」と残しています。
「義」は「自分を犠牲にする」ことです。
宿題をやってくる子、そういう子は、「忘れたら恥ずかしい」という気持ちが湧いてくる子です。
ですので、自然と自分の時間を犠牲にして、先生に言われた課題を進めます。
宿題をやってくる、忘れ物をしないで持ってくる、そのこと自体が、子供の心に「義」を育てているのです。

忠義という言葉もあります。これができる人は立派です。
「忠」に向かって、自分の何かを犠牲にして取り組むことです。
わたしも精進したいと思います。

b7473残念なのは、恥ずかしいと感じる心は一気に伸びてこないことです。
だから、粘り強い道徳の教えが必要なのです。

時として、先生が何かで忘れ物をした時、「先生は、恥ずかしいです」と子ども達に語り、恥ずかしさのお手本を示すことも大切な指導となります。

次回の「道徳の一時」はいつになるのか分かりませんが、わたしにとって楽しみな一時です。

『論語』は道徳を学ぶのに最適な本です。
今日も少し読みました。
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道徳で考えると言うこと

道徳で考えるというとき、どのように頭を使うとよいのでしょう。

若いころのことですが、道徳の副読本の教材研究をしていた時のことです。
文章をよく読み、いろいろと考えいたら、次第に「これで授業をすると国語になってしまう」と思えてきて、しばし、頭を冷やしたことがあります。

道徳で考えるという頭の働きが自分自身に無かったので、自然と国語の教材解釈へと進んでいったのです。

今は、道徳の教材文を読むとき、まず「正しさ」という視点で読んでいます。

この視点で読むだけでも、すでに道徳です。
読んでいるときの心が、正しい方向へ向いているからです。

ただ、時として、教材文中の主人公が意外に不道徳と思えてくることがあります。
そんな時は、「どうしてこれを道徳の教材とするのか、よほどの深い意図があるのだろうか」などと思うのですが、真意はつかめません。

道徳としての正しさの柱は何か。
これを一言でいうと、「孝」となります。
親孝行の方向で考えることが、道徳として対象を見る姿勢なのだと私は思っています。

b7451この「孝」と、考えるの「考」は、意外なつながりを持っています。
「孝」の訓読みには「おやおもい」があります。
「孝」は「親」とつながっている思考なのです。
では、「考」はどうか。「考」の訓読みには「ちち」があります。
父親の父です。

その昔、祖父を尊んで「皇祖考(こうそこう)」と呼んでいました。
父は「皇考(こうこう)」と呼ばれました。
また、父が亡くなったときには「考」と呼ばれていました。

父を思い考える事が、その昔、正しい道を歩むための考え方だったように思えています。

「孝」が親とつながり、「考」は父とつながっています。
道徳として考えるというのは、やはり親がどう思うか、お父さんお母さんは何と言うか、そういう視点から見ることが原点なのです。
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