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「目の子算」から「暗算」へ

以前から、気になっていたことがあります。

頭の中で計算するのは「暗算」。
では、○や/を書いて計算するのは、何と言うのだろう?

ルワンダに限らず、途上国では、3+4を暗算でしないで、○や/を書いて計算しています。
このやり方にも何か名称があるだろうと思っていたのですが、自分の頭の中には用語がありませんでした。

b7456ところが、つい先日、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』を少しだけ読みました。
そうしたら、そこに出ていたのです。
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ト五文ヅツ、ひとつひとつにかぞへてめのこざんやうにひったくられ
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「めのこざん」の所に注釈が立っていて、「眼算(まなこ)の転か」とありました。

この「目の子算」という言葉、今はもうすっかり使われていません。
ですが、辞書で調べると、戦国時代や江戸時代には使われています。
貨幣の流通に合わせて発生した言葉のように思います。

貨幣は今も使われていますが、目の子算という言葉は消えました。
これは、明らかに小学校教育の影響でしょう。
1桁のたし算・引き算は暗算でできるようにと教えられているからです。

こういう事が分かってくると、途上国で3+4をする時、○○○○ ○○○と書いてから、それを数えて答えを出すやり方が、戦前、あるいは明治以前のやり方のように思えてきます。
たかが1桁のたし算引き算ですが、ルワンダの子ども達を「目の子算」から「暗算」へ移行できたら、それは歴史的大ジャンプとなりえると感じています。
やりがいのある取り組みです!
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論語「仁に親しむ」のポイントは,先生です!

今度の土曜日は,「チーム算数」です。
いつものジョナサンで,いつものメンバーが,いつものような話しをします。

b7469論語の一節に「仁に親しむ」というのがあります。
学而第一の一節です。

子曰わく,弟子入りてはすなわち孝 
出でてはすなわち弟
慎しみて信
ひろく衆を愛して仁に親しみ
行いて余力あらばすなわちもって分を学べ

「心のひろい人と親しくしましょう」ということです。
そうすれば,知らず知らずのうちに良い影響を受けて,次第に人格が高まっていきます。

この条は,「弟子(ていし)」が全体の主語ですので,「仁に親しむ」も,若者やお弟子さんたちは・・・・心のひろい人と親しくしましょうね,という意味になります。

若者を,この立ち位置で受け止めることを職業して行っているのが学校の先生です。
子ども同士のいろいろな生活もありますが,その最も重要な影響力の大きい位置に存在しているのが,先生です。
だから,先生には,心をひろく保つことが普段から求められているのです。

b7734チーム算数は,城ヶ崎先生とそういうような人間性を高める人生を歩もうという方向性を持って始まっています。
歩みは遅々としていますが,そう言う歩みを楽しめているので,これが一番と思っています。
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論語 「日に身を三省す」の忠と信

b7474人間としてのできの悪さを思い知らされる,耳に痛い言葉です。

「三省」の後に,3つの事例が記されているので,自然感覚では3回反省すると読めます。
それでも良いですし,いやいや,いちいち1回2回3回と反省を数えているようでは,頭で反省しているような気がします。そうではなくて,心から自分を省みることが肝要と思えます。すると,幾度となく反省すると捉えるのも良い感じがしてきます。
あるいはまた,3つの事柄について反省しましょうとも読めます。人を手助けしたとき真心こめてしていましたか。友達と交わって信義の欠けることはありませんでしたか。習ってもいないことを伝えていませんか。

どのように省みても,自分自身が恥ずかしくなってきますし,人に対して申し訳なく思えてきます。

この条は,心から省みるとき,「忠」や「信」が大切なのだと教えてくれています。
ところが,自分でどう省みたかと,ふと思うと,なぜか技術的な所に目がいっている自分がいます。
もっと,こうすれば良かったとか,あそこであれはまずかった,こういう工夫で対応できるな,などと。
技術的な反省は,どちらかというと自分の出力への反省です。自分の出した内容なので,向上しようと思っている人は,自然,そこに着目をしています。表出的な反省と言えます。
それを,もう少し,自分の内側にある自分の心がどんなであったのかと省みるように教えてくれているのが,この条なのだと思っています。

ですので,少し意識的に,「忠」や「信」という点で省みてみようと思うのですが,この「忠」や「信」がわかるようでわからないような,ぼんやり感があります。
ただ,条を読んでわかるのは,「人とのことを省みる」ということです。
一人でいるとき,ふと,人とのやりとりをしていた時の自分の心を省みます。
そうすることが,忠や信を考えることになります。

b7473この条は,「曾子曰く」で始まっています。
曾子は『孝経』を表した人とされています。
親孝行が大元となる「孝」の教えを書いた本です。
ですので,忠や信も「親への気持ち」「親のような気持ち」という所から考えて捉えていくと,私にはわかりやすくなります。
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「巧言令色鮮ないかな仁」の妙味

b7734明日から9月ですね。
9月は例会が2つ。
「チーム算数」は10日(土)の午後からです。
場所は,いつものジョナサン。
あの城ヶ崎滋雄先生の話が聴けるのが,大きな特典です。

「SG会」は17日(土)の夕方からです。
場所は,明石先生のオフィスです。
明石先生の見識の博さ,学ぶところ大です。

どちらも,とても楽しい会です。
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b7476言葉が巧み。
愛想のいい顔をしている。
こういう時の人の心には,仁や誠というような真心がこれっぽっちもないですよと教えてくれています。

この条,読むに付け,いろいろな思いが巡ります。
まずは,「巧言令色で近づく人がいたら気をつけよう」と思います。
それ以上に,「そう言えば,自分もかなり巧言令色だな,もしかしたら,自分には仁がほとんど無いのかも」との思いも生じます。
そうして,言葉巧みになりそうになったとき,愛想良くしているときが,自分の心から仁が遠ざかる時なので,その時こそ,要注意の時なんだと自戒の気持ちになります。

こういう思いがあれこれ巡るのは,この条が言葉・顔色など行為を記した後に,仁という心の様子を記しているからなのだと思っています。
これが,もし,行為から行為へと,例えば,「巧言令色,詐欺に近し」と記されていたら,この条のように思いは巡りにくいです。
論語は心のあり方を示す語が,良いところにポンと入ってくるので,読む度に深みが変わってきます。

ところで,「仁」ですが,仁って何なんでしょうね。
愛とも言われますし,真心とも誠とも言われます。
そう言い換えられるとそんな気になりつつも,どうにもスッキリしない自分もいます。
抽象的な仁を,抽象的な愛・真心・誠へと言い換えるのは,抽象から抽象への変換です。
これは,小学校の先生なら,ちょっとダメかもと思います。
とくに,小学校の算数の教えを身につけている先生には,イマイチとなります。
せめて,半具体レベルの置き換えをして欲しいと思うのですが,そういう置き換えは普通はしません。
でも,そう置き換えたくなる自分がいるので,それについては,後日,記しましょう。

★『日めくり教室論語』 良いですね。b8626_300
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『論語』の学而第一の「朋」って大事ですね

b7484「学びて時にこれを習う
また説ばしからずや」
「朋 遠方より来たる
また楽しからずや」
この2つ。
先生くさく考えると,「学んだら復習をして,そうして,友達が遠方からも来てくれるような人になりましょうね」と言いたくなります。

どのようにしていくことが良いことであり,どうなることが大切なのか,そういう見方はそれなりの説得力を持ちます。
だから,そうなのだなとの思いが湧いてきます。
それとは別に,やはり,心の様子を記している「説(悦)」と「楽」の文字が心にグッと響いてきます。

悦と楽。
悦は一人で感じる喜び。
楽は人と分かち合う喜びです。

少し脱線しますが,小学生の道徳には,「主として自分自身に関すること」と「主として他の人とのかかわりに関すること」があります。
この悦と楽は,そこへの心のあり方を示しているように思えます。
指導要領を読むと,「自分でできることは自分でやり,よく考えて行動し,節度のある生活をする」など,いろいろと記されていますが,何をどうするという示し方が目立ちます。
きっと,これは道徳の入り口の表し方なのでしょうね。
節度のある生活をしたら,その生活をしていることを悦しいと感じられる日がやってきますよと,教えられたら良いですね。

そうして,「朋」です。
普通は「友」なのですが,道を歩み始めると,「朋」と「友」にはそれなりの違いがあるとされています。
b7485「友」は志を同じくする人で,「朋」は師匠を同じにする人となっています。
こういう区別があることを知っていても,それを区別して使うことはありません。
要するに,同じ師匠の下で学ぶ仲間や,同じ方向で仕事を進める仲間。
それが朋友なのです。
そういう人が自分の所にやってきたら,それは話も弾みます。
まさに,極めて楽しい一時になります。
こういう一時こそが,まことの極楽なのです。

道徳に力を入れている先生には,論語を読んで欲しいと思います。忙しいのはわかっていますが・・・。
日めくりの『教室論語』が教卓の上にあったら,クラスが少しずつ変わっていくでしょうね。
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『論語』の学而第一は良いですね

b7486暑い夏ですが,ひょいと『論語』の本を開いて,ちょっと良い気分に浸っています。

一番最初の章,「学而第一」のトップに書いてあるのは,「学びて時にこれを習う また説ばしからずや」です。

私の場合,その昔に学校の先生をやっていたので,学んだら,時々復習をして・・・と学習方法に目がいきがちになります。
職業柄,学び方も教えるので,自然と力がそこに向かってしまうことが,自分でよくわかります。

論語を読んでいると,方法の素晴らしさらもあるのですが,やはり心のありようの素晴らしさに感動をします。

「説ころばしからずや」というのは,喜ばしいですねぇという意味です。
勉強して,復習をして,そうしていることが楽しいということなのです。

やらされている勉強では,いやいややっている感が高まり,この喜ばしいという気持ちがなかなか湧いてきません。
学び事に自分から向かっていく心があると喜ばしいという気持ちも一緒にやってきます。
ましてや,志を持って学んでいれば,その道全体に楽しい世界が浸透します。

この喜ばしい気持ちですが,自分一人で喜ばしいと思うときには,「悦」となります。
友達と一緒に分かち合うときには,「楽」となります。
論語のこの場面は,一人での学習ですので,「悦しい」の意味で把握しています。
「自分で楽しめる」「自分で喜んでいる」という気持ちになると,一人でもその道を進んでいこうとする強い原動力になるのだ!と,私には思えています。

「悦しいですね」「楽しいですね」
これ,私のちょっとした口癖です。

b7877私の友達には,道徳を勉強している先生が多いので,時間のあるときに『論語』を読むといいことを,たまに話すことがあります。
その気になって読んでいる先生もいますが,すっかり忘れる先生の方が多いようです。

日めくりになっている『教室論語』もいいですね。
私でも,これをめくって見ているだけで,勇気が湧いてきます。そうして,ありがたいことに,気持ちが前向きになります。
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