Monthly Archives: 3月 2015

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担任する学年が決まったら

そろそろ春休みでしょうか。
新年度に担任する学年が決まったら,まずは,事前学習をしてみて下さい。

どんな事前学習かというと,新学年の取材です。

例えば,新年度は4年生の担任と決まったとします。
そうしたら,3月まで4年担任だった先生の所へ行き,4年生の勘所を教えていただきましょう。これから始まる1年間を,もっとも近々に体験をした先生のお話を聞けたら,これはラッキーです。
嬉しいのは,同じ学校の4年生のお話なので,具体例がこれから始まる1年間とドンピシャなのです。
全く気がつかなかったことが話に出てくるので,とても勉強になります。
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中嶋先生の本中嶋育雄先生の新刊『困った小学1年生,うまい教師の指導術』です。
一年生の担任となった先生,勉強になりますよ。
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あやまちをした子への導き

『小学』には,なかなかいい話が載っています。

諸生(しょせい)小(すこ)しく過差(かさ)有れば,
先生端坐(たんざ)し,召して與(とも)に相対し,
終日竟夕(きょうせき),之を語らず。
諸生恐懼(きょうく)畏服(いふく)すれば,
先生方(はじ)めて略(ほぼ)辞色(じしょく)を降(くだ)す。(p368)

生徒があやまちを起こしました。
そのあやまちに気がついた先生は,きちんと座って生徒を呼び出し,相対します。先生はそのままじっと黙っています。
生徒はとうとう恐れかしこまり,あやまちを話し始めます。
その時,先生は初めて顔色を和らげ,言葉を優しくして教え諭しました。

このような導き,小学校の先生もしています。
「先生に言わなければならないことがありますね。」など,子どもが自分から言い出すように流れを作る導きです。
直接,怒られてはいないのですが,いつもと違う雰囲気に,子どもも何か察します。
しまった!悪いことをしてしまった!
自然と,自分がしたあやまちを反省し,先生に話し始めます。

大事な点は,反省です。反省は瞬間的には行えません。それなりに時間を要します。ですので,待つことがポイントとなります。
あやまちを自覚させることは,心の立ち位置を,邪悪から正義・善へと移動させることです。
この心の移動を少し視覚的に見えるようにすると,この導きの意味の伝わりが良くなります。

心の舟心は何かの上に乗りやすいと思ってください。私は舟にたとえることが好きなので,とりあえず,心は舟に乗っていると思っています。
また,心はとても大きな自己愛の力を持っています。ですので,いつでも乗った舟を正しいと思ってしまいます。視覚的に言えば,心は色に染まりやすいのです。
悪い舟に乗れば,悪いことを心は正しいと思うようになります。迷惑をかけた相手が正しくても,自動的に,「あいつが悪い」と判断してしまいます。

反省させて導くというのは,心の舟の乗り換えを自分でできるようにする力を付ける学習なのです。

ですので,生徒が自分のやったことを悪いことと反省し,それを言葉にしたら,先生はにっこりするわけです。
一番難しい,心の乗り換えが出来たので,それを喜ぶのです。

時間があったら,この話の先生は,きっと次のような話をしたと思います。
もし,悪い舟に乗り続けていたら,その先どうなっていくか。
最悪コースのシナリオを話し,そうならなくてすんだことを喜んだことと思います。
また,良い舟に乗り換えた今,それ自体が親孝行であり,社会正義であり,先生も一緒だと話したのではないかと思います。
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日本教育新聞に宇佐美先生の本の書評が!

『私の作文教育』日本教育新聞の書評欄に,宇佐美寛先生の『私の作文教育』が載っていました。
書評を書かれたのは新潟県十日町市教育委員会教育委員長の庭野省三先生です。
書評のテーマは「中・高の指導見直しを指摘」です。
その文体がピシッとしていて,気持ちの良さを感じます。
良い書評が新聞に掲載されて,とてもありがたい気持ちになっています。

掲載されたのは,3月23日の日本教育新聞です。
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授業づくりネットワーク春集会で面白かったこと

授業づくりネットワークの春集会に顔を出しました。
自分の講座があるわけではありませんが,千葉大で開催とのことなのと,藤川先生とも久しぶりにお会いしてみたいと思い,一日受講しました。

分科会が2回ありました。
1回目の分科会は,テーマで決めました。
「教室のルールづくり」です。
2回目は流れで「『教室』を考える時に若手が直面していることは何か」の教室に行きました。

面白かったのは,近場の人との話し合いです。
話し合いの中身が面白かったのではなく,話し合いに参加している自分の不可解さが面白かったのです。

その場に居合わせた3人とか4人ぐらいで感想を語る場面が,結構多くありました。
見知らぬ人と話すのです。そんなとき,いきなり話し始めるのも何か違和感がありました。まずは,ご挨拶でしょうと,名刺を差し出し,「さくら社の横山です」と一般的な挨拶をしました。

この名刺を出すことをした自分の行為が面白かったのです。
なにしろ,講師の先生のお話を受けて,その事について話し合うのが目的の時間なのです。それも短い時間です。ご挨拶をしている暇はありません。
また,挨拶は話し合う内容に何ら関わりません。ある意味,話し合いの妨害になります。
それは分かっているのですが,それでも,自然と名刺を出して挨拶をしている自分がいるのです。

名刺を出す順番は,普通は用のある人の方から出します。わざわざ御対応をしてくださり,ありがとうございますという感謝の気持ちを伝えつつ,自分がどこの誰なのか名乗ります。
今回はフロアの席なので,誰から誰へと用事があるわけではありません。こういう時は,長幼の序で年齢がそれなりに幅をきかせてきます。
ですので,目上が先に名刺を出すというのは,自然ではありません。
これも分かっているのですが,明らかに年上の私が先に名刺を出しています。

小学校の先生は,廊下でのすれ違いざま,子ども達より先に「おはようございます」と挨拶をします。朝出会ったら朝の挨拶をするんですよ,ということを行動で教えているわけです。
ここに,作法の形を変えてでも挨拶の重要性を教える仕事人,それが先生なんだ!という先生観がでてきます。
私が名刺を先に出してしまうのは,もしかしたら,私の中にこの先生観がまだ残っているからかも知れないと,フッと思ったのでした。

名刺を交換したというだけのことですが,それを思い返すにつけ,妙な面白さを感じています。
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名刺と言えば,若い頃,かなり面白い名刺を作っていました。
学習ゲームを研究していた頃は,名刺に歴史人物モンタージュを印刷して,かなりのインパクトを与えていました。木を薄くスライスした名刺があることを教えて貰った時,早速,自分もそこに注文をして作ったこともありました。珍品名刺の感があり,これも楽しかったです。

今は,極めて一般的な,特に何の特徴もない名刺を使っています。
中庸の教えを良いものだと感じ取れる年齢になったような気がしています。
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自己規準からの価値感情

普通に座っているだけで,「横山先生は,姿勢が良いですね」と話してくれる先生がいます。
そういう一言を言われると,私もありがたい気持ちになります。
また,同時に,良い姿勢を見て,それを「良い」と感じる教師として感覚を持っている先生がいることにも,ありがたさを感じます。

自分が普段出来ていないことを,良いことだから出来るようにしましょう,と言われても,「姿勢なんか・・・」とか,「そんなの出来なくたって・・・」という思いが自然に湧いてくることがあります。
「自分は出来る・自分は出来ない」という所からも,感情はわき出てくるからです。自己規準からの価値感情の発生です。ごく自然なことです。

この自己規準からの価値感情ですが,不思議と出てこないところがあります。
道場や稽古場などです。
正座を見ても,そうするのがノーマルな場なんだ,そうしないと学べないんだと,頭が了解するからです。規準が「自己」から「道場」へ移動しているからです。

『子どもの作法』椅子に座る時は姿勢よく座るものだと了解してしまえば,「姿勢なんか・・」という思いを振り切ることが出来ます。
こういう,自己規準からの価値感情を乗り越え,価値基準を高めることが作法の学習なのです。

では,作法ってどんなことなのか。
一言で言えば,この本のタイトルにある「ちゃんと」ができることです。
「ちゃんと」を進めていこうという心を作ることであり,「ちゃんと」が自然に備わっている状態へと自分を改善していくことです。
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単位量は「当たり前」って言われても,分からないですよね。

調べ物をしていると,相変わらず途中で脱線しています。単位量は当たり前

「左前」と言う言葉は,多くの方がご存じだと思います。
着物の着方で,死に装束の場合に用います。
ですので,着物を左前に着るのは,あまり縁起の良い着方とはなっていません。

このときの「前」の用い方が,普通の「前」と微妙に異なっています。
普通の「前」は,自分を規準にして,距離感が大きい方がより大きな前になります。
朝礼で背の順で並んでいたとしましょう。自分の目の前の子は1つ前です。その子より前にいる子は,「もっと前にいる」という感覚になります。先頭の子は,一番前という感覚で,並びの中では最大の前です。
普通の「前」は,どうも算数(数直線)臭いです。

これと「左前」や「前方後円墳」の「前」は感覚が違います。
自分の体からの距離が短い方が前なのです。
左前は,左側の襟が体に近い方となります。
前方後円墳は,方形(四角い形)の方が自分の体に近い方となります。
「手前」「目の前」という意味での前なのです。
何となくですが,生活臭いと感じます。

こんな風に思っていた時,気になったのが「当たり前」でした。
いわゆる,当然!常識!という意味の言葉です。

「手前」は手の前と思えますし,「目の前」は目の前です。
すると,「当たり前」は,当たりの前なのでしょうか。
ズバリ当たっているなら,それで「当然!」という意味と結びつきます。
ですが,「前」がくっついています。おまけのようにくっついています。

調べてみたら,最近有力視されている説が載っていました。
それは,「一当たりの分け前」が略されて「当たり前」となったと言う説です。
収穫した物をみんなで分ける時,全体の量÷人数で計算して,一人当たりがもらえる量を決めます。ですので,「一当たりの分け前」がもらえて当然の量なのです。

私がググッと来たのは,この「もらえて当然の量」という生活感覚です。
算数で単位量も教えてきましたが,「もらえて当然の量」という感覚は伝えたことがありません。
こういう実感性の高い言い回しを伝えたら,子ども達の学習意欲も少し高まるのではないでしょうか。

算数も文化の中で生まれ発展してきた概念ですから,そこに生活感覚の強い言葉も入り込んでいます。そういう文化という目で算数をもう少しとらえ返したら,ほんの少しですが,お役に立つような気がしています。

来週の土曜日は,「算数スタートダッシュ!セミナー」です。楽しみですね。

「当たり前」は『日本語源大辞典』(小学館)で調べました。
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