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戦戦兢兢

「戦戦兢兢(せんせんきょうきょう)」
広辞苑によれば,「おそれつつしむさま」であり,そこから派生した「びくびくしているさま」を言い表しています。

この言葉は,単独に成立している言葉ではありません。
後に続く言葉があります。

戦戦兢兢 深淵に臨むが如く
薄氷を履(ふ)むが如し

『春秋左氏伝』に,この部分が登場しています。
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たとえ小国でも侮っては侮ってはなりません。防備を怠ればたとえ多勢でもたのみにはなりません。
詩に,
戦戦兢兢・・・・薄氷を履むが如し
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ここを読んだとき,実に驚きました。
友達の城ヶ崎滋雄先生が,卒業式練習の指導で使っていた比喩だからです。

昨年度の城ヶ崎先生は,卒業学年の担任でした。
卒業式の練習で,子ども達の歩行が気になっていました。
普段より少しゆっくり歩んで欲しいと思っていたからです。
しかし,「ゆっくり」と言っても効果がないことはこれまでの体験で熟知しています。
どうしたものかと思っていたとき,フッと古武道の足の運びを思い出したそうです。
そうして,子ども達に言ったのが次の言葉です。

「薄い氷が張っています。
 それを割らないよう歩きなさい。」

すると,子ども達の歩き方は一変しました。
粛々と歩くようになったのです。

相手が小国でも,薄氷を踏むが如く慎重にと記した『左伝』は,今から2000年以上も前の話です。
同じ比喩を友人が古武道から導き出しました。
感動的な一瞬でした。

戦戦兢兢。
もともとは,『詩経』というすこぶる古い中国の詩です。
短い詩ですので,参考までに記します。

敢(あえ)て虎を暴(てうち)にせず 敢て河を馮(かちわた)らず
人はその一を知るも その他を知るなし
戦戦兢兢として
深淵に臨むが如く 薄氷を履むが如し

虎は手で倒そうとしない,河も歩いて渡ろうとしない。
人は一面を知っていても,その他の面を知らない。
何があるか分からないから,注意深く行うことだ。
深い淵に臨むように, 薄い氷を踏むように。

法華義疏

聖徳太子と言えば,6年生の社会です。
十七条憲法と冠位十二階が有名です。
「十七条憲法」は『日本書紀』に載っています。
岩波の文庫本ですと,第4巻の「推古天皇」の章にあります。(冠位十二階も載っています)

「皇太子,親ら肇めて憲法十七条作りたまふ」 

このあと,「一に曰く・・・」と続きます。
岩波の本には,ルビがたくさん振られています。
「憲法十七条」の読み方にもルビが記されています。これが,なかなか良いのです。

「いつくしきのり とをあまりななをち」です。

「憲法」を私たちは「けんぽう」と音読みしています。
それ以外の読み方はないものと思っていました。
ところが,上のように和の読み方もあったのです。

「いつくし」というのは,神々しいとか,素晴らしく立派というような感覚です。
ですので,この十七条はただの「法」と同等ではないのです。

「憲法」と似たものに,江戸時代の「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」などの「法度」があります。
「法度」と「憲法」は,単に言い回しが違うだけで,共に似たものと思っていました。
ですが,辞書を引いてみるだけでも,やっぱり違いが出てきます。

度・・・規則
憲・・・手本とすべききまり
(広辞苑調べ)

「手本」は素晴らしのが基本です。神々しいほどに素晴らしい手本となるきまりが「憲法」なのです。
明治政府が法度という言葉を用いず,「憲法」を用い,さらに,戦後も「憲法」を用いていること。
その心が実に素晴らしく立派に感じられてきます。
「和語で読む」 ことは,そこに託された心を知る手がかりになります。

『聖徳太子』には,「法華義疏(ぎしょ)」と「十七条憲法」が載っています。
「法華義疏」は,日本の現存する最古の書です。聖徳太子の作で法華経の注釈を書いた本です。
「抄」というのは,注釈という意味です。
太子の書いた注釈を読み飛ばすと,仏がどうしたという類の伝説的お話しと思えてきます。
ところが,その注釈を読むと,そこに非常に大きな計り知れない教えが広がってきます。
「なるほど,そうよむのか」と響いてきます。
これは,「憲法」を「いつくしきのりと」と和語で読む読み方を知っているかいないかで,響き方が変わるのと似ています。

法華経と禅。自分なりにもう少し勉強を進めてみたいと思っているジャンルです。

仰げば尊し

「人の行い 孝より大なるはなし」

親孝行に勝る行いは無いですよと,聞こえてきます。
両親が喜んでくれることは,たいてい良い行いです。
両親を悲しませる行いは,もちろん悪い行いとなります。
『孝経(こうきょう)』の一節です。

何かするときに,両親がどう思うだろうかと考えるのは,実に有益なことです。
判断に迷ったとき,御両親を思い浮かべれば,そこに道が見えてきます。

親孝行に関わる言葉は,「仰げば尊し」にも記されています。
「身を立て名を揚げ やよ励めよ」
この部分です。

「身を立て名を揚げ」は,孝の教えを記した『孝経』からの言葉です。

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身体髪膚,これを父母に受く。あえて毀傷(きしょう)せざるは,孝の始めなり。
身を立て道を行い,名を後世に揚げ,もって父母を顕すは,孝の終わりなり。
それ孝は親に事(つか)うるに始まり,君に事うるに中ごろし,身を立つるに終わる。
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「身を立てる」というのは,親孝行を第一とし,世の中に出たら,長たる人物を親同様に大切にする,そういう生き方を指します。
「孝の道」を歩む。その姿勢が「身を立てる」ことなのです。
そういう孝行者なら,自然と立派な人だとの名声が揚がってきます。
これが「名を揚げる」です。揚げようと思ってあげるのではなく,自然に揚がっていくのです。
それがお父さんお母さんの誉れともなる,このような意味です。

ですので,無理して狭くとれば,いわゆる「立身出世」とも言えますが,昇級を目的として,そこへ向かって「お目々ギラギラ」となる教えではありません。
親を大切にする心をもって人生を歩むことを教えた尊い言葉です。

私も若い頃は,「身を立て名を揚げ」を,「立身出世」と思いこんでいました。
古典から学ばず,字面だけで解釈していたからです。
表面の知識を根拠に,大いばりで反民主主義の歌と思いこんでいました。
実に情けないことです。
どんな時代であれ,親孝行は褒め認められこそすれ,否定はされません。
主義主張も時代をも超える大切な教えです。

『魏志倭人伝』『後漢書東夷伝』

『魏志倭人伝』『後漢書東夷伝』を読むと,大昔の日本のこと,日本人のことが少し分かります。

気候が温暖。土地も耕作に向く良い土地。
その上,人々が穏やかでした。

目上の人と会ったら,後ずさりをします。
何か,お伝えすることがある場合は,跪いて手をついて,まずは恭敬の念をしめします。
目上の人は,「あい」と返事をします。

立場は違えど,お互いに礼を保ちます。
礼の仕方は変わっても,礼をする心は今も変わっていないのが日本人なのだと思います。

読み返すと,何とも言えない良い気分になります。

『後漢書東夷伝』には,秦の始皇帝の話しが出ています。
不老不死の薬が海の向こうの蓬莱山にあると伝えられており,家来の徐福にそれをとりに行かせた話しです。
その蓬莱の地は,なんと日本(東夷)なのです。

日本に不老不死の妙薬があると思われていたこと。
秦の始皇帝が信じるほどの信憑性を持っていたこと。
これが良いですね。伝説とはいえ,子ども達にも教えて欲しいところです。

先日読んだ数学の本では,蓬莱山は富士山となっていました。
霊峰富士なので,不老不死と結びつくのも自然かなと思います。
富士山を拝むと,長生き出きるように感じます。
そんな気持ちが始皇帝にまで届いていたのでしょう。

『後漢書東夷伝』は,後漢の国書ですから,きんとした正式な歴史書です。
そこに載っている話しですから,蓬莱の話しは重みがあります。

 

購入しました『中国古典名言事典』

中国思想を読んでいる内に,いつかきっと,買うことになるだろうと思っていた本を買いました。
『中国古典名言辞典』です。

なかなか購入できなかったのは,この本の作りに敷居の高さを感じていたからです。
第1章が論語,2章が孟子,3章が大学・・・とこういう順に名言が掲載されています。
開いてみたとき,「これでは・・・」と残念に思った事があります。

それが今では,なんだかこの作りが良い感じなのです。
今の感触で古典を読んだら,後にはかなり有益な本になると感じ,購入に至りました。

先ほども「荀子」の「宥坐」の所を読みました。
手元の『荀子』の該当箇所と微妙に書き方が違っています。
おかげで,良い言葉に触れることができました。

「満則覆」 満つれば即ち覆る
「宥坐之器」が登場するお話しです。
「得意になりおごる者は,必ず滅びる」と締めくくっています。
グッと良い気持ちになります。

中国古典に限らず,古典を学ぶことは,「良い言葉体験」なのだと思っています。
日頃,世俗的な言葉にずっぽりと使って生活をしているので,時々,古き良き言葉に触れて,そこから人としての道を迷わないように・・・などと思うのです。

『三国志 蜀書』を読みました

『三国志』を読みました。といっても,蜀書だけです。魏書,呉書は読んでいません。
ちょっと調べたいことがあって,読んだのです。
気になることがなければ,読むはずもないので,この本は私の「寄り道本」です。

寄り道でも,読めばいろいろと有益な気持ちが湧いてきます。

三国志といえども,現代語訳は思っていたほど難しくありません。
それでいて,劉備だの,関羽だの,諸葛孔明など,有名所の武将が登場してきます。
中国の正史への敷居が,急速に低くなりました。
この感触が得られたのが,ありがたいです。
おかげで,正史などへの読書意欲が湧いてきます。

読書熱が高まることは,実に大切なことです。
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1,本を読む
2,創意工夫をする
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この2つが,学問の基本だからです。
本は多めに読みます。
創意工夫は粘り強く行います。
すると,読書と工夫が相交わり,質の高い中身が生まれてきます。

『三国志 蜀書』には,「白眉」「泣いて馬謖を斬る」「三顧の礼」も出ていました。
覚えのある言葉が途中にあると,ちょっとした一服感となります。有り難いです。