Category Archives: 作法

「姿勢の良い人になろう」「人の図」山内小学校6年生

b7857横浜の山内小学校6年生の皆さんに,「人の図」を教えました。
宇和島の下灘小学校3年4年の皆さんにも「人の図」を教えました。
違いは,「心」に対応する言葉です。
3年4年生の子には「好きになる」と書きました。
でも,今回は,「やり遂げる」としました。6年の3学期という特別なシーズンでもあり,指導の先に卒業式が待っていたからです。

そうして子供達に話しました。
人は大雑把に言って,「体」と「頭」と「心」に分けることができます。
「体」は「できる」ようにします。
「頭」は「わかる」ようにします。
「心」は「やり遂げる」ようにします。

「体と頭のことは,先生やお父さんお母さんに教わって,できるようになり,わかるようになります。
でも,心は自分でやり遂げようとしないとできません。
と,いつものように,心だけは自分でするところだと話しました。

姿勢の指導がはじまり,私は何度となく「自分の心を強くするのだ」と熱く語りました。
それが子供達の印象に残っていたのでしょうか。
最後に質問を受け付けたときです。
感動的な質問がでました。
「心を強くするには,他に何がありますか」
つまり,姿勢を良くすること以外にも自分の心を強くする方法があるのか,という問いです。
この問いが出るということは,「今の自分の心をもっともっと鍛えたい!」という気持ちになっているのです。
指導を受けたその先を自分でどんどん歩みたい!という気持ちになっているのです。
これこそ道徳です。「道」を歩もうとしているのです。
私は痛く感動し,思わず「良い質問です!」と褒めました。

最初に示した「人の図」を見せ,「やり遂げる」を示しつつ,「やり遂げたいというものを見つけ,やり遂げようとすることです。」と話しました。
質問した子は納得顔になりました。
私も良い気持ちになりました。
道徳は道を示し歩ませる勉強なのです。

ここで,もう一つ付け加えて話をしたかったのですが,次の時間の算数の授業もあるのでやめました。
付け加えたかったことについては,また,今度書きましょう。
--
関連記事:

横浜の山内小学校で

横浜の山内小学校へ行ってきました。
ありがたいことに,6年生への姿勢の授業と,5年生への算数っぽい授業をさせていただきました。
若い先生方の研修の一環です。

この日,妙に電車が気になり,30分前には到着する列車に乗りました。
これで十分大丈夫と思っていたのですが,ダイヤの混乱とぶつかりました。
最寄り駅に着いたのは予定の10分後。臺野校長先生をお待たせしてしまいました。
申し訳ないことをしてしまいました。

その臺野校長先生から今朝ほど,メールをいただきました。
私の授業の様子を「校長だより」の記事にしてくれていました。
電光石火の仕事ぶりに,頭が下がります。
少し引用します。(改行は私の好みで変更しています)
--
現役ではないが超一流の先生である。
ありがたい機会をいただいた。参観できなかった方にその一端をお伝えする。
「子どもを励ます」「ほめてその気にさせる」「しかし甘くはない」指導である。見習いたい。
--
この書き出しに恐縮です。
すでに,退職をして15年。
私の腕はさび付いています。この日の授業もあれこれ反省が先立ちます。
--
5校時
6年生全員へ「姿勢の良い人になろう」の授業
宇和島下灘小学校での公開授業(3・4年生対象)をベースにされながら、6年生対象に「最高の卒業式にしよう」という視点で、よい姿勢について具体的な姿、心構えや、さらにこれからの生き方にまで踏み込んでご指導いただいた。
姿勢という熟語の「勢い」が大切であること。勢いのある座り方、と「勢いのない だれて緩んだ」座り方を具体的に動作化させながら、どちらが参観する保護者に感動をもたらすか問いかけられた。
また、椅子の正しい座り方、「もたれる」の意味から背もたれをどう使うのかなど、子どもたちはもちろん、聞いている職員も「そういうことか」と納得する御指導であった。
b7867「人には優しく。自分には正しく」
「心を強くする」
「動かないことに勝てる自分」等々、
子どもたちとのやり取りの中で発せられる横山先生の言葉はどれも、実感を伴って子どもたちの心に入っていたと思う。
1時間で、子どもたち120人の姿勢や返事、何より心構えが大きく変容した授業であった。
--
初めての子供達だったので,いつものように,「人と自分の図」を示しました。
子供達からは,「自分に正しく」とはスッと出てきませんでした。
これは,現状の道徳がこういった基本的な所を教えていないので,答えられなくてごく自然なのです。
なにしろ,先生方に問うても,たいてい答えられません。
先生方も小学生の頃,道徳を学んでいないのです。
やむを得ないことです。

はっきりわかることは,「道徳も教わらないとわからない」ということです。
だから,道徳は授業をする必要があるのです。

この日の6年生に,「人の図」「人生の図」を示しました。
それぞれ重要な内容を含んでいます。
追って記しましょう。
--
関連記事:

「姿勢の良い人になろう」「分別があるの図」

b7864「姿勢の良い人になろう」という授業をして,その内容を少し記しています。
昨日は,「ニワトリの図」を書きました。
ニワトリさんやお猿さんたちと,人はちょっと違うんだという話です。
「良い・悪い」がわかるのが人なんだと言うことです。

「良い・悪い」があることの話をしたら,ついでに「分別がある」の話をすることができます。
「分別」は「ふんべつ」です。「ぶんべつ」と濁ると,ゴミの分別になってしまい,話が進みません。

「分別がある」というのは,まさに読んで字のごとしです。
「分けて」「別れる」のです。
何を分けるのでしょうか。
「良いと悪い」を分けるのです。
何と別れるのでしょう。
悪い方と別れるのです。
物事に良い悪いがあり,その「良いと悪いを分けて」「悪い方と別れる」のが分別があるということなのです。

食事の仕方にも良いと悪いがあります。
姿勢にも良いと悪いがあります。
挨拶の仕方にも良いと悪いがあります。
要するに,礼儀作法の世界には良いと悪いが必ずあるのです。

「悪い方と別れるぞ」と判断できる人が分別のある人です。
「悪くてもいいや」と判断する人は分別のない人であり,場合によっては聞き分けのない子なのです。

こういうことを知っていると,時間があれば,「良いと悪いを分けて,悪と別れる」とみんなで唱和したくなってきます。

漢字を訓じることで,道徳の指導に大いに役立つことがあります。
そんなとき,「日本語は素晴らしいな」「漢字はありがたいな」とつくづく思います。
--
関連記事:

「姿勢の良い人になろう」「ニワトリの図」

b7863「姿勢の良い人になろう」ということで,「人の図」「人と自分の図(1)」「人と自分の図(2)」を記しました。

授業では触れなかったのですが,講話で先生方に少し話したのが「ニワトリの図」です。かなり,あっさり話しました。今回は少し詳しく記します。

今回の授業のテーマは「姿勢の良い人になろう」です。
道徳でなければ,「姿勢を良くしよう」でも,「良い姿勢をしよう」ということでも良かったのです。
ですが,道徳の授業ですので,ここは「人になる」ことを目指すようなタイトルにしました。

ここで使っている「人」は,単なる動物としての人ではなく,「徳のある人」「立派な人」ということです。ですので,少し詳しいタイトルにすると,「姿勢の良い徳のある立派な人になろう」となります。

大事なのは,「人になろう」という指向性です。
道徳は時として,その瞬間瞬間を道徳的判断で・・・となることがあります。
そういうこともありますが,道徳は人生を通じて目指していくものです。
基本は指向性にあります。

また,何かを目指すと言うことは,何かから遠ざかることを意味します。
何から遠ざかるのでしょうか。
そこが明確になると,「目指す方向はこっちだ!」と一層わかりやすくなります。

『論語』『礼記』などを読んでいると,時々,「禽獣」という言葉が出てきます。
トリやケダモノです。
人の目指す方向の真逆にいる存在として用いられています。

女性が襲われたり,理不尽なことをされたとき,「ケダモノ!」と叫びます。
徳のある人の真逆の存在。それが「ケダモノ」とされているからです。
2500年もの昔から伝わっている最悪な比喩です。
その「ケダモノ」から遠ざかること,「ケダモノ」と決別すること,それが徳のある人の歩む道です。

では,その禽獣と人は何が違うのでしょう。
もちろん,道徳として何が違うかということです。
それは,「良い・悪いという区別の有無」です。
猫や鳥や猿にも,それなりの姿勢があります。
ですが,そこには「良い姿勢」「悪い姿勢」はありません。
猫や鳥や猿も,食事をします。
しかしながら,良い食べ方・悪い食べ方はありません。

当たり前の話ですが,親猫が子猫に,「姿勢が悪いよ」とか「散らかさないように食べましょう」と指導を入れているところ,見たことがありませんね。
猿も同様です。「良い○○○」「悪い○○○」という概念が無いのです。

「良い」「悪い」の区別ができる頭を持っている人間なのに,心がダメになると悪い方を選んでしまいます。
そんな心になって欲しくないので,「人になろう」とタイトルにつけたのです。

さて,この後,「分別があるの図」をご紹介するのですが,それは今度にします。
--
関連記事:

「姿勢の良い人になろう」「人と自分の図」

b7867「姿勢の良い人になろう」の授業をして,まず最初に「人の図」を書きました。
それから,「人と自分の図」を書きました。

人には「優しく」と図に書いて,「では,自分には?」と問いました。
すかさず「厳しく」と返ってきましたが,正解は「正しく」です。
会場の先生方が頷く姿が見えました。

算数で3+2は「4」ではなく「5」と正解を示しても,頷くほどの反応はありません。
誤答も正答も,どちらも言葉の力が同程度だからです。

ところが,「厳しい」と思ったものが「正しい」と知ったとき,ある種の納得感が出てきます。
正解の言葉の方が,誤答の言葉より実に素晴らしいからです。
その寛さ,その大きさ,その輝き,その目指す方向・・・。

だから,道徳の場合は誤答を子供達が言っても,それがなぜ誤答かを語らずとも,正しい方を示すことで心に響かせることができるのです。
その響きが伝わる人は,正答を基準にして,なぜ誤答はイマイチなのかを考えるだけの力がわいてきます。

子供達には,正答を示すだけで理由は説明しませんでした。
「そう言うものなんですよ」と思うところから入るだけでも,「学びの構造」が子供達に伝わるからです。

この図を見て,声に出すときは,「自分に正しく,人に優しく」と読みます。
まず持って,自分を正します。
その正しさを持って,人に優しく接します。
これが道徳の基本です。
--
この日の授業の途中で,一人の男の子が隣の子の背中を見て,小さい声ながら強い語気で「背中,背中」と言っていました。
洋服がふくらんでいて,それが背もたれに触れていたからです。
言われた子は「触れてないよ」と言うのですが,注意はやみません。

そこで私は,「人には優しく言うんだ」とその場で指導しました。
参観された先生方にはどう映ったかわかりませんが,この指導はお粗末です。
我ながら,切れ味が悪いと思いました。

少なくとも,「君は姿勢が正しい。それはこの図のここだ。ここは良くできている。」と一言加えるべきでした。
そうして,「優しくの方がイマイチ。言い方を考えてみよう。」などと言えたことです。
こうすることで,その子を学びの構造の中に入れることができ,周囲の子も一緒に構造に入れたのです。

図を使うというのは,とりもなおさず,学びの構造の中に子供達を入れていくためなのです。
こういう肝心なところをスルーしたのですから,お粗末としか言いようがありません。
こうした私の指導のお粗末さ加減は,瞬時の判断,切れ味の悪さであり,その根源はまさに不徳の致すところなのです。
--
ここまでの授業の途中,一人の男の子をかまいつつ,「姿勢の良い人」の有るべき姿について指導しました。これについては,次の機会に書いていこうと思います。
--
関連記事:

 

「姿勢の良い人になろう」「人と自分の図」

b7868道徳の授業「姿勢の良い人になろう」の本題に入る前に,2つの図を子供達に示しました。
その一つは,「人の図」です。
もう一つは,「人と自分の図」です。

この図を板書して,「人には優しく」することが大切であることを話しました。
特に説明は要しません。

それから自分の矢印を書き,自分にはどうするのか聞いてみました。

一人の男の子がすっくと手を挙げ,「厳しく」と答えました。
この答えに対して,私は80点をつけました。
本当なら,60点ぐらいです。
大人なら,50点をつけておいて,後から説明を加え,「まじめに考えると,0点」と言うかもしれません。
いずれにせよ正解ではないので,点数はその場の雰囲気で決めればいいのです。

なぜ,「厳しく」ではダメなのか。

なぜダメかを考えるとき,「なぜ『厳しく』と考えてしまうのか」を考えてみるといいです。
2つの事柄があり,一方が「優しく」です。
そこから,もう一方を決めます。
こんな時は,自然と頭がバランスを取ろうします。
バランスの中心は「普通」です。
すると,思考がほぼ自動的に,「優しく-普通-??」と進み,「厳しく」だろうと推測するのです。
バランスを好む頭,整合性を取ろうとする頭が,反対語で考える思考を生み出すのです。

国語なら反対語はとても大切です。
しかし,今は道徳です。
この図を見て,人と自分との関係を考えています。
どう考えても,「反対」という思考は似合いません。
道徳の世界は,人と自分とを「反対」にしようとはしないからです。

もし,人と自分が反対で有るべきなら,ゴミを拾う人の姿を見たら,自分は捨てようと思うことになります。
そうはなりません。ゴミを拾う人を見たら,立派だなと思います。
逆に,人がゴミを捨てる姿を見て,自分は拾うということがあります。
ゴミを捨てるのを悪いことと知っているからです。
道徳が反対するのは「悪いこと」に対してなのです。
人そのものを悪いと見なすことはあってはなりません。
だから,この場合は反対にとらえることはできないのです。

人と自分を考えるときに反対語で考えてしまうと言うことは,人を悪い人と見ているとも言えてしまいます。
よろしくありません。

では,自分にはどう考えるのでしょうか。
それは,次回書きましょう。
--
男の子の答えが80点になったので,すかさず女の子が手を挙げました。
「やさしく」と答えました。反対語の世界から脱することはできませんでした。
道徳も,算数などの勉強と同様にそれなりに勉強が必要なのだと,こういう瞬間に感じます。

セミナーも終了し,フランクな時間になりました。
北海道から参加された小山内校長先生から,「自分の矢印が,なぜあんな風になっているのか」と質問を受けました。
さすがだなぁと思いました。
今すぐに理由を書いても良いのですが,その前に知っていて欲しい図があるので,それを示してから書いていきたいと思います。
--
関連記事: