Category Archives: 道徳

宝と言えば

先日、外国語活動へのアンケートの御協力をお願いしました。
すぐにメールなどが届き、感謝しています。
まだ、日数がありますので、御協力いただける小学校の先生、どうぞよろしくお願いします。
(アンケートは5分もあれば終わる程度内容です。)
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◎メールで横山験也宛へご一報ください。
(フェイスブックの場合は、メッセージでお知らせ下さい)
宛先: yo◆kennya.jp  (◆のところは、半角の@に変更してください)
件名: アンケート希望
内容: 必ずお名前をお書きください。

締めきり: 9月末日

追って、アンケート用紙(ワード)をメールでお送りします。
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b7442◆宝と言われたら、世俗の私は高価な物など、金銀財宝が思い浮かんできます。
たまに、自分持っている大切な物ともなりますが、得てして財宝系となりがちです。

ところが、論語には「なるほど」と感服する宝が登場します。
周の武王が言った言葉です。
周に大賓(たいらい)あり、善人これ富む。
周には天から賜った大きな宝があります。それは善人がたくさんいることです。

宝は自らの臣民ですと、心から言ってくれる人のもとで暮らしている人たちはうれしいでしょうね。頑張ろうという思いが沸き上がってきます。

うれしいことに、日本書紀にも同様の言葉が出てきます。
「百姓」と書いて、これを「おおみたから」と読ませています。
これが何度も出てきます。うれしいですよね。

そうして思いは巡り、もしかしたら、日本の小学校が心豊かに富んでいるのは、小学校の先生が受け持ちの子を宝のように思っているからなのだと、思えて仕方ありません。
海外の先生方にも、そういう精神性の高いところを伝えられたらと思います。
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「道徳の一時」 城ヶ崎先生と

今日は久しぶりに城ヶ崎先生と「道徳の一時」を過ごしました。
以前から、二人で話す時は自分たちを少しでも高められる、そう言う話を・・・と語り合って、不定期で会っています。

もし、二人とも徳のある人間でしたら、こういう一時を過ごす必要もないのですが、どうにも自分自身を思うと、恥じ入ることが多く、こういう一時を生かして物事をどう考え感じていくのか語り合っています。

b7446今日の話しを振り返ると、「はじる心」になるかなと思います。
宿題を忘れてあっけらかんとしている子は、忘れる事への恥ずかしさが芽生えていないのです。
忘れると言うことは、言葉を変えると、約束を守らないということです。

その昔から、子供を育てる上で重要な叱責の言葉が2つあります。
1つは、「そんなことをしたら恥ずかしいでしょう」
もう1つは、「立派な人は、そういうことをしません」
この2つは、ともに「はじる心」を育てる言葉なのです。

孟子は「羞恥の心は義の端(はじめ)なり」と残しています。
「義」は「自分を犠牲にする」ことです。
宿題をやってくる子、そういう子は、「忘れたら恥ずかしい」という気持ちが湧いてくる子です。
ですので、自然と自分の時間を犠牲にして、先生に言われた課題を進めます。
宿題をやってくる、忘れ物をしないで持ってくる、そのこと自体が、子供の心に「義」を育てているのです。

忠義という言葉もあります。これができる人は立派です。
「忠」に向かって、自分の何かを犠牲にして取り組むことです。
わたしも精進したいと思います。

b7473残念なのは、恥ずかしいと感じる心は一気に伸びてこないことです。
だから、粘り強い道徳の教えが必要なのです。

時として、先生が何かで忘れ物をした時、「先生は、恥ずかしいです」と子ども達に語り、恥ずかしさのお手本を示すことも大切な指導となります。

次回の「道徳の一時」はいつになるのか分かりませんが、わたしにとって楽しみな一時です。

『論語』は道徳を学ぶのに最適な本です。
今日も少し読みました。
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道徳で考えると言うこと

道徳で考えるというとき、どのように頭を使うとよいのでしょう。

若いころのことですが、道徳の副読本の教材研究をしていた時のことです。
文章をよく読み、いろいろと考えいたら、次第に「これで授業をすると国語になってしまう」と思えてきて、しばし、頭を冷やしたことがあります。

道徳で考えるという頭の働きが自分自身に無かったので、自然と国語の教材解釈へと進んでいったのです。

今は、道徳の教材文を読むとき、まず「正しさ」という視点で読んでいます。

この視点で読むだけでも、すでに道徳です。
読んでいるときの心が、正しい方向へ向いているからです。

ただ、時として、教材文中の主人公が意外に不道徳と思えてくることがあります。
そんな時は、「どうしてこれを道徳の教材とするのか、よほどの深い意図があるのだろうか」などと思うのですが、真意はつかめません。

道徳としての正しさの柱は何か。
これを一言でいうと、「孝」となります。
親孝行の方向で考えることが、道徳として対象を見る姿勢なのだと私は思っています。

b7451この「孝」と、考えるの「考」は、意外なつながりを持っています。
「孝」の訓読みには「おやおもい」があります。
「孝」は「親」とつながっている思考なのです。
では、「考」はどうか。「考」の訓読みには「ちち」があります。
父親の父です。

その昔、祖父を尊んで「皇祖考(こうそこう)」と呼んでいました。
父は「皇考(こうこう)」と呼ばれました。
また、父が亡くなったときには「考」と呼ばれていました。

父を思い考える事が、その昔、正しい道を歩むための考え方だったように思えています。

「孝」が親とつながり、「考」は父とつながっています。
道徳として考えるというのは、やはり親がどう思うか、お父さんお母さんは何と言うか、そういう視点から見ることが原点なのです。
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友達って何ですかと問われたら

先日,「朋友」のことを書きました。
「朋」も「友」もどちらも友達のことなのですが,「朋」は師匠が同じ場合で,「友」は同志という意味を,大昔は持っていました。
今は,そう言う使い分けをしていませんので,仲の良い人のことを友達と呼んでいます。
特に親しくしている人のことを親友と言いますが,中には親友中の親友を,真友などと造語で語る人もいます。

b7467その「友」なのですが,この漢字の音読みは「ユウ」,訓読みは「とも」となっていますが,訓読みがまだ他にもあるのです。
「したしむ」と「たすける」です。

この訓読みを知ると,友というのは親しいだけでなく,助けたり助けられたりする存在なのだと気づかされます。

昔,テレビで「俺たちの旅」という青春ドラマをやっていました。
この番組の歌の一節。
「また会う約束などすることもなく,それじゃあ,またな と別れるときの お前がいい」
わたしはこの一節が大好きで,今も友達との別れ際は,「またな」と言いたくなり,そういえる相手が友なんだと思っています。
「また,会おうぜ」「また,会いたいね」「また,会いましょう」と思う相手,それこそが親しく助け合える相手なのです。友達なのです。

b7468長いこと,この歌を口ずさんでいると,小学校の先生はそれなりにひらめきます。
「友は又ナ(またな)でできている」と。
作詞をした小椋佳を,たいした人物だと思ったものでした。
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論語 「日に身を三省す」の忠と信

b7474人間としてのできの悪さを思い知らされる,耳に痛い言葉です。

「三省」の後に,3つの事例が記されているので,自然感覚では3回反省すると読めます。
それでも良いですし,いやいや,いちいち1回2回3回と反省を数えているようでは,頭で反省しているような気がします。そうではなくて,心から自分を省みることが肝要と思えます。すると,幾度となく反省すると捉えるのも良い感じがしてきます。
あるいはまた,3つの事柄について反省しましょうとも読めます。人を手助けしたとき真心こめてしていましたか。友達と交わって信義の欠けることはありませんでしたか。習ってもいないことを伝えていませんか。

どのように省みても,自分自身が恥ずかしくなってきますし,人に対して申し訳なく思えてきます。

この条は,心から省みるとき,「忠」や「信」が大切なのだと教えてくれています。
ところが,自分でどう省みたかと,ふと思うと,なぜか技術的な所に目がいっている自分がいます。
もっと,こうすれば良かったとか,あそこであれはまずかった,こういう工夫で対応できるな,などと。
技術的な反省は,どちらかというと自分の出力への反省です。自分の出した内容なので,向上しようと思っている人は,自然,そこに着目をしています。表出的な反省と言えます。
それを,もう少し,自分の内側にある自分の心がどんなであったのかと省みるように教えてくれているのが,この条なのだと思っています。

ですので,少し意識的に,「忠」や「信」という点で省みてみようと思うのですが,この「忠」や「信」がわかるようでわからないような,ぼんやり感があります。
ただ,条を読んでわかるのは,「人とのことを省みる」ということです。
一人でいるとき,ふと,人とのやりとりをしていた時の自分の心を省みます。
そうすることが,忠や信を考えることになります。

b7473この条は,「曾子曰く」で始まっています。
曾子は『孝経』を表した人とされています。
親孝行が大元となる「孝」の教えを書いた本です。
ですので,忠や信も「親への気持ち」「親のような気持ち」という所から考えて捉えていくと,私にはわかりやすくなります。
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「巧言令色鮮ないかな仁」の妙味

b7734明日から9月ですね。
9月は例会が2つ。
「チーム算数」は10日(土)の午後からです。
場所は,いつものジョナサン。
あの城ヶ崎滋雄先生の話が聴けるのが,大きな特典です。

「SG会」は17日(土)の夕方からです。
場所は,明石先生のオフィスです。
明石先生の見識の博さ,学ぶところ大です。

どちらも,とても楽しい会です。
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b7476言葉が巧み。
愛想のいい顔をしている。
こういう時の人の心には,仁や誠というような真心がこれっぽっちもないですよと教えてくれています。

この条,読むに付け,いろいろな思いが巡ります。
まずは,「巧言令色で近づく人がいたら気をつけよう」と思います。
それ以上に,「そう言えば,自分もかなり巧言令色だな,もしかしたら,自分には仁がほとんど無いのかも」との思いも生じます。
そうして,言葉巧みになりそうになったとき,愛想良くしているときが,自分の心から仁が遠ざかる時なので,その時こそ,要注意の時なんだと自戒の気持ちになります。

こういう思いがあれこれ巡るのは,この条が言葉・顔色など行為を記した後に,仁という心の様子を記しているからなのだと思っています。
これが,もし,行為から行為へと,例えば,「巧言令色,詐欺に近し」と記されていたら,この条のように思いは巡りにくいです。
論語は心のあり方を示す語が,良いところにポンと入ってくるので,読む度に深みが変わってきます。

ところで,「仁」ですが,仁って何なんでしょうね。
愛とも言われますし,真心とも誠とも言われます。
そう言い換えられるとそんな気になりつつも,どうにもスッキリしない自分もいます。
抽象的な仁を,抽象的な愛・真心・誠へと言い換えるのは,抽象から抽象への変換です。
これは,小学校の先生なら,ちょっとダメかもと思います。
とくに,小学校の算数の教えを身につけている先生には,イマイチとなります。
せめて,半具体レベルの置き換えをして欲しいと思うのですが,そういう置き換えは普通はしません。
でも,そう置き換えたくなる自分がいるので,それについては,後日,記しましょう。

★『日めくり教室論語』 良いですね。b8626_300
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