Category Archives: 道徳

「道徳って何?」と問われたら

b7810「道徳って,何ですか」と問われたら,皆さんはどうお答えになるでしょうか。
今日は,そんな話です。

「道徳」ですから,「人格形成」だろうと思えます。
「道徳」だから,「隣人愛」だろうとも思えてきます。
「道徳」なんだから,「聖人への道」のはずだとも思えてきます。

「道徳」という言葉は抽象的な言葉なので,その時その時で解が変わりやすくなります。
変わりやすいままでも良いのですが,できればぶれない解をもてるようにしたいです。
「道徳」に対する考え方に一貫性が出てくるからです。

それには,どうしたらいいでしょうか。
私は漢字から考えるのがベターと思っています。
なぜなら,戦後,道徳が生まれたとき,「修身」とはせず,「道徳」としたのです。
どういう意味を込めてこの熟語を用いたのか,その誕生時の考え方に近づけるような気がするからです。

私の場合は,独善的ですが,単純に「徳のある道」と読み替えています。
少々の解説的には,「普通の生き方ではなく,心に徳のある状態で歩む生き方」と捉えることができます。

すると,道徳を考えるのがそれほど難しくなくなります。
それは,「徳があるか,徳がないか」そこを軸に考えればいいからです。

では,その「徳」とはどういう心の状態を言うのでしょうか。
それについては,またの機会に書きたいと思います。
--
こういう道徳話に耳を傾けてくれる先生がいます。
ありがたいです。
「徳は孤ならず。必ず隣あり」(論語里仁第四)とフッと思います。

『心に刻む日めくり言葉 子どものための教室論語』
--
関連記事:

小さな道徳「オーバー・コートの図」

b7830寒さが一段と厳しくなってきました。
子供達もオーバーやらジャンパーやらと,たくさん着込んで登校します。

「教室の中ではオーバーなどは着ませんよ」と教えたくなる機会が多くなります。
ストレートにそのままを伝えても良いのですが,ちょっと時間に余裕があったら,黒板に「外套(がいとう)」と書いて,「オーバーやコートのことを,昔は外套と言っていたんだよ」と話してあげるといいです。

そうして,「套」の字をよく見ると,「大」と「長」が見えてきます。
そこに「外」と付いています。
「外で着る,大きくて長い物。それがオーバーやコートだね」
「ところで,教室は『外』かな?『内』かな?」
と聞いてみれば,「ああ。」と感じて来ます。
自然,上着を脱いで所定の場所に起き始めます。

私の好きな道徳は,こういう小さな道徳です。
セミナーでも,時々脱線して話すことがあります。
小さな道徳は,お母さんの道徳とも言えます。
その場その場で,繰り返し繰り返し言ってくれた,あの思い出深い道徳です。
時には,心を鬼にして言ってくれたことでしょう。
鬼というのは,元をたどると人の神でした。
心を鬼にすると言うのは,神様のような強い愛情に包まれているということなのです。
--
関連記事:

新潟の大田先生と歓談!

25年ぶりでしょうか。
新潟の大田先生と再会しました。
大田先生は,今や校長先生です。
話を聞けば,40代前半で教頭となり,50代前半で校長職です。
今は2校目だそうで,あれこれ重責を担っています。

歓談したのは,いつもの中華屋です。
昔話に花が咲きました。

分析批評で有名な新潟の大森先生は,今,大学の先生をされていているそうです。
学級作りの名手・橋本先生も大学の先生だそうです。
若い頃,熱血ティーチャーだった人たちが,今も大活躍をされています。
こういうの,良いですよね。

私がアフリカの教育に関心を持っているので,そんな話もさせていただきました。
そうしたら,大田校長も文科省のお仕事でフランスとタイに教育視察されたそうです。
こういう話も楽しいです。

b7844別れ時が近づいた頃,私が卒業式練習などに呼ばれる事があることを話しました。
その中で「人生の図」を書いて授業をしていることを話しました。
今回は,特に「落とし穴」をしました。

人よりできるところが多い人は,知らず知らず驕る心が芽生え,次第に高慢になっていきます。
当然のように,他の人を見下すようになります。
一番大事な人格が歪みはじめます
これが,「落とし穴」なのです。
そこから,怠け癖が身につくと学力は停滞します。
不良に走ると,その道へと落ちていきます。

人を見下す心は,ウサギとカメの「ウサギの心」になるわけです。
志に通じる「やり遂げる心」をもむしばみます

落とし穴に落ちるのは自然の流れです。
落ちてもそこは居心地が悪いので,普通は自然と反省し,戻ってきます。

でも,落とし穴に落ちた自分を,人のせいにする人はそのまま低きを歩みます。
まずかったなぁと反省できる人は,再びよみがえり前進し始めます。

そうして,その後,先生の立ち位置を話します。
落とし穴に落ちても大丈夫です。
先生達はいつでもここで,キミが戻ってくるのを待っています。
と,こんなこととを付け加えて,おしまいになります。

また,大田先生とお話をしたいですね。
その時は,もっと時間をたっぷり取って,人も集めて,ワイワイ話したいです。
「朋(とも)あり遠方より来たる」の心境です。
--
関連記事:

「モットー・学校訓」

b7845相模原でアフリカの教育事情の話をしてきました。
資料はパワポ。その中の1枚が右です。
ケニヤの小学校の校門と校舎壁面です。

こちらの小学校のモットーは「STUDY TO ASCEND」です。
日本の小学校にはモットーはありませんが,学校教育目標を子供向けにわかりやすくした「学校訓」「校訓」があります。
校訓は,ストレートに「勉強」とは示さず,「明るく・正しく・たくましく」など学びの内容を,精神面から示すことが多くなっています。

学校訓に似たものとして,学年訓・学級訓があります。
学校教育目標をわかりやすくしたものが「学校訓」。
学年教育目標をわかりやすくしたのが「学年訓」。
さらに,パワフルな先生は学級教育目標をわかりやすくして「学級訓」をつくっています。

学校訓を覚えていると,子供達とあれこれやっているとき,フッと一言出すことができます。
けんかをしてしまった子に,「○○小の子は『明るく』だよね。けんかをしているとき,明るかったかい?」とでも言えば良いわけです。
こういう一言,結構子供達に響きます。
子供とはいえ,小学校への所属意識はあります。
その小学校が掲げる学校訓。
これは「そっちの方に歩みましょう!」という方向性を内包しています。
ですので,校訓を用いることは,歴史的な言い方をすれば,それは「忠」を意識化させることになります。
--
関連記事:

「姿勢の良い人になろう」「人生の図」

b7853横浜の山内小学校の6年生の皆さんに見せた「人生の図」がこれです。
これから先をどうしたいか。
できれば,グッドな方向にグイッと歩ませたい!
そんなときにこの図を使います。

まず,折れ線グラフのような図を書きます。
原点からの縦横のラインを引き,学年の目盛りを打ちます。
6年生の3学期に入ったばかりですので,6年の所だけは3等分します。

次に,原点から右上がりにラインを引き,「今,皆さんはここにいます」と,自分たちの立ち位置を示します。

最後に,卒業式までの未来の図を書き加えます。
「このまま順調に進むと,このあたりにたどり着きます。
これを『普通』と言います。」
続けて話します。
「でも,ちょっとダレてしまったり,やる気がなくなってしまうと,こちらに進みます。
これは『低』です。」

そうして,子供達に聞きました。
「普通と低。どっちに進みたいですか。」
それぞれに挙手を求めました。
しかし,誰一人手を挙げません。
できる子供達です。
誰も手を挙げない光景を見て,「自分たちはもっと伸びるんだ!」という強い意識を感じました。

b7852そこで,図に付け足しをしました。
「高」の存在を知らせ,その中の上の方には「最」という所があることも知らせました。

「最高」を目指す。
でも,「最高」にたどり着けるかどうかはわからない。
でも,たどり着けるように心を強くして前進して行くこと。
これが大事なのです。
--
このように未来を正しい方向に力強く歩むこと。こういった道はきわめてまじめな道徳です。
孔子が活躍をしていた2500年もの昔から当たり前のように言われていることです。
「子曰わく,君子は上達し,小人は下達す。」(『論語』憲問第十四)
しっかりした心を持っている人は上に達しますが,そうでない心では堕落するのです。

昔から良いとされる所の教えを,私も子供達に伝えることができました。
ありがたい一時でした。
--
ところで,論語など古典には,このような図は出てきません。
もし,この「人生の図」が論語の時代に示されたら,どうなるでしょう。
まず,誰一人理解できないでしょう。
なぜなら,この図には「座標」という算数数学の概念が用いられているからです。
座標はデカルトが作ったとされています。
1600年以前の人には,基本的に理解不能な図なのです。
日本では江戸時代までの人たちにはかなり複雑な図として映ると思います。

そんな「人生の図」。
日本の小学生はすんなり理解します。
小学校の先生方が熱心に算数を教えて下さっているからです。
そういう教えの場がつくられている日本の教育システムにも感謝の気持ちが起こってきます。
道徳を勉強するにも,算数や国語の学力は大切なのです。
--
関連記事:

「姿勢の良い人になろう」「人の図」山内小学校6年生

b7857横浜の山内小学校6年生の皆さんに,「人の図」を教えました。
宇和島の下灘小学校3年4年の皆さんにも「人の図」を教えました。
違いは,「心」に対応する言葉です。
3年4年生の子には「好きになる」と書きました。
でも,今回は,「やり遂げる」としました。6年の3学期という特別なシーズンでもあり,指導の先に卒業式が待っていたからです。

そうして子供達に話しました。
人は大雑把に言って,「体」と「頭」と「心」に分けることができます。
「体」は「できる」ようにします。
「頭」は「わかる」ようにします。
「心」は「やり遂げる」ようにします。

「体と頭のことは,先生やお父さんお母さんに教わって,できるようになり,わかるようになります。
でも,心は自分でやり遂げようとしないとできません。
と,いつものように,心だけは自分でするところだと話しました。

姿勢の指導がはじまり,私は何度となく「自分の心を強くするのだ」と熱く語りました。
それが子供達の印象に残っていたのでしょうか。
最後に質問を受け付けたときです。
感動的な質問がでました。
「心を強くするには,他に何がありますか」
つまり,姿勢を良くすること以外にも自分の心を強くする方法があるのか,という問いです。
この問いが出るということは,「今の自分の心をもっともっと鍛えたい!」という気持ちになっているのです。
指導を受けたその先を自分でどんどん歩みたい!という気持ちになっているのです。
これこそ道徳です。「道」を歩もうとしているのです。
私は痛く感動し,思わず「良い質問です!」と褒めました。

最初に示した「人の図」を見せ,「やり遂げる」を示しつつ,「やり遂げたいというものを見つけ,やり遂げようとすることです。」と話しました。
質問した子は納得顔になりました。
私も良い気持ちになりました。
道徳は道を示し歩ませる勉強なのです。

ここで,もう一つ付け加えて話をしたかったのですが,次の時間の算数の授業もあるのでやめました。
付け加えたかったことについては,また,今度書きましょう。
--
関連記事: